02/25 名古屋レインボーホール (愛知県) 07/09 日本ガイシホール (愛知県) 10/09 国立代々木競技場・第一体育館 (東京都) 06/23 朱鷺メッセ・国際展示場展示ホール (新潟県) 06/18 国立代々木競技場・第一体育館 (東京都) 04/30 Zepp Tokyo (東京都) 05/12 Zepp Osaka (大阪府) 10/28 横浜アリーナ (神奈川県) 10/06 Zepp Namba (大阪府) 10/05 福岡サンパレスホール (福岡県) 12/13 コラニー文化ホール (山梨県) 10/07 Zepp Namba (大阪府) 06/09 静岡エコパアリーナ (静岡県) 01/24 福岡サンパレス ホテル&ホール (福岡県) 05/10 セキスイハイムスーパーアリーナ (宮城県) 07/06 セキスイハイムスーパーアリーナ (宮城県) 12/14 コラニー文化ホール (山梨県) 07/01 大阪城ホール (大阪府) 10/28 びわ湖ホール 大ホール (滋賀県) 04/29 広島グリーンアリーナ (広島県) 05/27 日本ガイシホール (愛知県) 05/31 大阪城ホール (大阪府) 06/18 マリンメッセ福岡 (福岡県) 03/12 北海道立総合体育センター・きたえーる (北海道) 06/16 横浜アリーナ (神奈川県) 09/20 大阪城ホール (大阪府)※※ 04/29 朱鷺メッセ・国際展示場展示ホール (新潟県) 06/10 マリンメッセ福岡 (福岡県), 04/05 国立代々木競技場・第一体育館 (東京都) 浜崎あゆみ(はまさき あゆみ、1978年(昭和53年)10月2日 - )は、日本の女性歌手、女優、モデル。本名は濱﨑 歩(読み同じ)[3]。福岡県福岡市早良区出身[1]。所属芸能事務所はエイベックス・マネジメント。所属レコード会社はエイベックス・エンタテインメントで、レーベルはavex trax。血液型はA型。公式ファンクラブは「TeamAyu」。愛称は「ayu」。, モデルや女優としての活動を経て事務所を移籍、1998年4月8日に1stシングル「poker face」でソロ歌手としてデビュー[3][4]。歌手デビュー後の楽曲については、オリジナル曲は全て自身で作詞し、「CREA」名義でいくつか作曲も手がけている。楽曲のみならず衣装、ミュージックビデオ、雑誌グラビア、CDジャケットのレイアウトやライブ演出といったビジュアルアートに至るまで、本人による徹底した非常に厳しいチェックを行っている[5]。, 主に1999年〜2000年代前半に怒涛のCDリリースと徹底したメディア露出戦略でヒットを連発。2012年発売のベストアルバム『A SUMMER BEST』のリリースによりシングル・アルバムの総売上枚数が5000万枚を突破、B'z、Mr.Childrenに続き、史上3組目、5年5か月ぶりの記録を達成。総売上枚数が5000万枚を越えたのはソロアーティスト並びに女性アーティストとしては史上初の快挙であった[6]。, 1999年1月発売のデビューアルバム『A Song for ××』が約145万枚を売り上げて歌手としてブレイクを果たすと女子中高生を中心に彼女のファッションやメイクを真似する若者たちが増え、マスコミなどから「女子高生のカリスマ」と呼ばれるようになった[4]。ファッションリーダーとしてネイルアート、大きなサングラス、豹柄などが流行し、社会現象となった。ベストジーニストやネイルクイーンでは殿堂入りも果たしている[7][8]。, 2001年3月期において、所属レコード会社エイベックス社の売上高・利益の4割を稼ぎ出し、同年秋にアルバムの発売延期の情報が流れただけで株価が下落するなど、同社の経営状態を左右するほど看板歌手としての浜崎の存在感は高まり、浜崎頼りの同社の経営体質の弱点を揶揄する「あゆ依存」という言葉も生まれたほどであった[9]。, また、2004年にエイベックスの経営方針を巡って当時の専務松浦勝人と依田巽会長が争った際には、浜崎あゆみの言動が大きな影響を与えた(詳細は「エイベックスお家騒動」参照)。, 幼少の頃に父親が蒸発、母子家庭で育った[10]。小学生の頃にSOSモデルエージェンシー福岡にスカウトされ、「浜崎くるみ」の芸名で福岡中央銀行のポスターや地元商業広告に登場。その後、東京のサンミュージック(現:サンミュージックプロダクション)を紹介され、所属することとなる。都営地下鉄浅草線浅草駅のホームに掲示されているタレント養成所の広告には、加藤晴彦とともにこの頃の写真が掲載されていた。, 1993年、14歳でテレビ朝日系テレビドラマ『ツインズ教師』でドラマ初出演し、女優としてデビュー。1994年、15歳で芸名を「浜﨑あゆみ」(『崎』の異体字『﨑』)に改名し、同年4月に堀越高等学校芸能活動コースに入学。同級生には中山エミリがいる。16歳から17歳にかけて「渚のシンドバット」「未成年」や「闇のパープル・アイ」等テレビドラマ・映画、Vシネマで女優として出演。またグラビアアイドルとしての活動や"AYUMI"名義でアルバム「NOTHING FROM NOTHING」のリリース(1995年)なども行った。, また、スーパーファミコンのサテラビュー向けラジオ番組に泉谷しげると共にレギュラー出演していた事もある。この番組の打ち上げで泉谷がふざけて投げたパイプ椅子が浜崎あゆみに当たったことがあるという。当時に対談した伊集院光によるとこの頃の浜崎はアイドルでは全然売れておらず、一人で出した企画盤のCDをみんなに配っていたという[11]。, 1995年に当時可愛いと評判の店員として六本木のヴェルファーレに入り浸っており、そのVIPルームでエイベックス創業者であり当時専務だった松浦勝人と知り合う。その約1年後、浜崎が「エイベックスで(歌手を)やりたい」と口にしたことと、96年末にサンミュージックとの契約が切れたことをきっかけに、松浦からエイベックスに誘われる。, 翌1997年夏、浜崎はボイストレーニングのため3ヶ月間ニューヨークへ渡り、エイベックスからの歌手として再デビューへの入念な準備が始まった。松浦曰く、浜崎は既にドラマやグラビアに出演していたので、海外レッスンを経て昔のイメージを断ち切り、アイドルっぽさが表に出ないようにしたかったという。当初は3~4人組のグループを結成し、ボーカルに浜崎を据えるつもりでいたが本人が断り、ソロという形になった[12]。当時、松浦はエイベックスの売上の大半を叩き出していた小室哲哉と衝突・不仲となり、安室奈美恵、華原朋美などの小室の成功手法・ノウハウを取り入れながら、アイドル的外見を持つアーティストがファッションリーダーなどとしても売れると察知し、脱小室戦略として自身が手掛けたEvery Little Thingの成功を収めた直後、新人の浜崎あゆみに全力で投資・注力することを決める。18歳でデビューが決まる際、松浦曰く浜崎の顔(容姿)は100%完璧の好きな顔だったが、芸能界における重鎮や社内幹部からは浜崎あゆみの顔では売れないと評価されたという。そんな中、浜崎は松浦が最後まで自分を信じて必死に売り出そうとすることに対し好意を抱き、松浦へ送った手紙がデビュー直後の歌詞となっていたこと、松浦とデビュー前から大ブレイクするまで交際していたことが、2019年発売の自伝的小説「M」で明かされている。, 1998年4月8日発売の1stシングル「poker face」で「浜崎あゆみ」として19歳で歌手デビュー。デビュー時からエイベックス内で巨大プロジェクトチームが立ち上がり、莫大な広告費と綿密な計画で2ヶ月に1枚という超ハイペースでCDがリリースされ、多くの化粧品会社や製菓メーカーなどとタイアップし、テレビ・雑誌などのメディアによって徹底的かつ短期間で常に露出し続ける戦略が取られる。8月5日発売の3rdシングル「Trust」で初のトップ10入りを果たし18万枚を記録。この年だけで5枚のシングルをリリースし、平均セールスは10万枚足らずと大きなヒットはなかったものの、徐々に浜崎あゆみの知名度・注目度が上がる。, 同年12月28日、ニッポン放送”浜崎あゆみのオールナイトニッポン”で初ラジオMCを務める。事前に秋元康が”浜崎あゆみさんはバカじゃないと思います”と語るシーンを映したラジオ番宣のTVCMを打つなど異例のプロモーションを行った。ラジオ内では当時の若者の街角インタビューが流され、”浜崎あゆみは頭が悪そう・女優時代はサバサバキャラだったのに急に歌手デビューして不思議少女になってバカっぽい口調でayuね〜と自分を呼んだりして調子に乗ってる・朋ちゃん(華原朋美)の真似してる・天然ボケを作ってる・一緒にいて疲れそう・歌う時に腰に手を当てて可愛い子ぶってる”などと当時のキャラ設定の浜崎を嫌う人が多かったが、番組中に浜崎を嫌いという人たちが電話をかけてきて話をすると、彼女は自らの生い立ちを語ることで相手をすっかり共感させて泣かせてしまう。その反響は凄まじく、翌日には浜崎の公式サイトの掲示板がパンクするほどであった。プロデューサーの松浦勝人曰く《いくら嫌われても、あるべきものが内面にきちんとあれば、それが理解された時、嫌われ度合いが大きいほど振り子は次には逆に振れる。「嫌い」から「好き」に大きく振れる。だから、自分の人生を全部暴露しちゃえ、いい詞が書けることは間違いないんだからそれで押していけという戦略をとった》という。, その結果、1999年1月1日発売の1stアルバム『A Song for ××』がオリコンチャート1位を初獲得。渋谷の街を浜崎の顔で一色にするなど”街をジャックする斬新な宣伝方法”と”本人が手掛けた歌詞”が話題となり、自身初のミリオンセラーとなる。同年つんく♂プロデュースの4月14日発売の7thシングル「LOVE 〜Destiny〜 / LOVE 〜since1999〜」でシングルでも初のオリコンチャート1位を獲得。この頃から本人出演でJT「桃の天然水」、HONDA「ジョルノクレア」、花王「AUBE」、森永製菓「こんがりショコラ」などのCMに立て続けに出演し、7月14日発売の9thシングル「Boys & Girls」が3週連続1位を獲得、自身出演CM曲を4曲収録した翌8月11日発売の10thシングル「A(4曲A面)」がシングル扱いでは初のミリオンセラーを記録し、夏に大ブレイクを果たす。この年のリリースしたシングルを全て含む同年11月10日発売の2ndアルバム『LOVEppears』は同日発売の11thシングル「Appears」と共に上半身裸で胸を髪で隠す白肌と黒肌のジャケットが話題となり、ダブルミリオンを記録。同年12月31日の『第50回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。この年だけで7枚のシングルにオリジナルアルバム2枚、リミックスアルバムなど毎月怒涛のリリースラッシュで他の追随を許さない勢いと露出量で一気にトップアーティストに躍り出た。この頃から女子高生・ギャルを中心にカリスマ的存在となり、浜崎のブレイクに伴い、ライヴ・コンサート・アーティストのグッズ・エッセイ・写真集など、広告代理店のような発想で音楽以外の利益を生み出すビジネスモデルも形が整っていった。, 2000年4月より自身がセルフプロデュースを務める初めてのコンサートツアーに挑むも、左耳の疾患(内耳性突発難聴)により一部の公演を延期した。同年、KOSE「VISSE」やTU-KAなどのCMキャラクターに起用されメディアにおける存在感を更に強め、4月から6月にかけて絶望三部作と称して3ヶ月連続でシングルをリリース。中でも、6月7日発売の16thシングル「SEASONS」は136万枚のミリオンセラーを記録。これらを収録した9月27日発売の3rdアルバム『Duty』は同時発売の17thシングル「SURREAL」と共に豹柄のジャケットやPVが大きな話題となり予約が殺到し、オリジナルアルバム自身最高の290万枚を記録。同年11月、全日本有線放送大賞でグランプリを受賞した。以降、2001年と2002年のALL JAPANリクエストアワード、2003年のベストヒット歌謡祭でもグランプリを受賞し、4連覇を達成している。同年12月13日発売の19thシングル「M」ではCREAとして初めて作曲を手掛け、マリア像を意識した衣装が話題となり132万枚のミリオンセラーを達成。同年12月31日には2度目の紅白出場と同時に、初のカウントダウンライブを開催。同年も7枚のシングルに6枚のアルバムという驚異的なリリース数で、CD総売上げ200億円を突破するなど人気は頂点に達していた。, 2001年2月28日には1stシングル「poker face」から8thシングル「TO BE」までの計8作品が12cmシングルとしてリミックスを追加して再発売され、オリコン週間ランキング20位〜31位に全作がランクインし、いずれも売上を2-3万枚伸ばすなど人気絶頂ぶりを見せつけた。, 同年3月28日、デビュー丸3年にして自身初のベストアルバム『A BEST』を発売。宇多田ヒカルの2ndアルバムの発売日にぶつけるなどの過去最大級規模のプロモーションを実施したことでマスコミ連日報道合戦となり、結果として自身最高の400万枚以上の売上を記録。夏には東京、大阪、名古屋、福岡の4大ドームツアーを行った。この年リリースした作品は全て首位を獲得し、年末には75万枚を記録した9月27日発売の24thシングル「Dearest」で日本レコード大賞を初受賞し、3度目の紅白出場。12月12日には『songnation』に参加し、小室哲哉の作曲、自身の作詞のもとアメリカ同時多発テロ事件チャリティシングル「a song is born」をglobeのKEIKOとの共作でリリース。デビューからCDリリースラッシュの勢いを止めることなく同年もシングル6枚にアルバム5枚を発売し、史上初二年連続CD総売上げ200億円を突破した。, 2002年1月1日発売の4thアルバム『I am...』がダブルミリオンを記録。『タイム』誌アジア版3月25日号の表紙を飾り、第一回MTV ASIA AWARDSで特別名誉賞を受賞。2002年4月24日発売の26thシングル「Free & Easy」は雑誌『Free & Easy』とのコラボレーション企画であり、同時に雑誌の別刊『浜崎共和国』を発売する。7月24日発売の27thシングル「H(3曲A面)」が、日本のシングルCDの売り上げが全体的に低迷しはじめた2002年において唯一、オリコン・日本レコード協会でのシングルミリオンセラーを記録(100万枚出荷記念版含む)。9月26日発売の28thシングル「Voyage」に合わせて6年ぶりに女優として演じた短編映画『月に沈む』が公開。10月12日、初のレギュラー及び総合司会を務める番組『ayu ready?』がスタートした。12月18日発売の5thアルバム『RAINBOW』では初の英語歌詞にも挑戦し、ミリオンセラーを記録。年末、67万枚を記録した「Voyage」で日本レコード大賞を2年連続で受賞し、4度目の紅白出場を果たす。, 2003年3月12日発売のバラードベスト『A BALLADS』ではファン投票により選曲された。また、5thアルバム『RAINBOW』の初回盤購入者がインターネット上のみで聴くことができたインスト楽曲に、10万人以上のメッセージを読んだ浜崎あゆみ自身が詞をつけて完成させた「RAINBOW」が収録された。この頃から歌番組などでコーラスがつくようになる。10月、シングル30枚発売記念スペシャルライブ『A museum 〜30th single collection live〜』が行われた。12月17日に初のミニアルバム『Memorial address』を発売し、ミリオンセラーを記録。ボーナストラック以外の収録曲全てに対しプロモーション・ビデオが作られるなど億単位の制作費を投入し、この頃からプロモーション・ビデオの製作に力を入れるようになった。年末、37万枚を記録した11月6日発売の31stシングル「No way to say」で史上初のレコード大賞3連覇を達成し、5度目の紅白出場を果たす。(ただし、同年は国民的大ヒットとなったSMAP「世界に一つだけの花」が最有力候補と見られていたが、楽曲コンセプトに沿わないことから賞レースを辞退した背景がある), 2004年3月20日、総合司会を務めていた番組『ayu ready?』の放送が終了。この頃からCM等のキャラクターの多くを降板し、歌手業に専念している。7月末、エイベックスお家騒動が起こり(→諸騒動、エイベックス参照)、これ以降は年末の賞レースを辞退。同年12月15日発売の6thアルバム『MY STORY』がミリオンセラーを記録、これが2020年現在では自身最後のミリオンとなっている。32ndシングル「Moments」で6度目の紅白出場。, 2005年には愛・地球博開会式第三部にて『a song is born』を披露。36thシングル「Fairyland」で7度目の紅白出場。, 2006年6月21日発売の40thシングル「BLUE BIRD」ではソロ歌手および女性ボーカルでは史上初のシングル総売上2,000万枚を達成する。同年8度目となるNHK紅白歌合戦では、11月29日に発売された8thアルバム『Secret』より「JEWEL」を選曲し、初めてアルバム曲を披露することになった。, 2007年2月28日、『A BEST 2 -BLACK-』『A BEST 2 WHITE-』が発売された。オリコンチャート1位および2位を初登場で獲得。また、自身初のアジアツアー(香港、台湾、上海)を開催。7月18日発売の41stシングル「glitter/fated」のDVDには香港の俳優・余文楽(ショーン・ユー)と共演したショートフィルムが収録。12月5日には、初のデジタル・ダウンロード規格のみのシングル「Together When...」を発表。前年に続き、この曲で9度目の紅白に出場。, 2008年4月8日にデビュー10周年記念を迎え、それを記念してシングル・コレクション・アルバム『A COMPLETE 〜ALL SINGLES〜』発売等、10周年記念の活動を行った。2009年3月25日発売の10thアルバム『NEXT LEVEL』では、日本人アーティストとしては初となるUSBメモリ形態を発売した。「Mirrorcle World」で10度目の紅白歌合戦に初のトップバッターとして出場。, 2010年、シングル50枚目の発売に向けて、作曲者を槇原敬之や、デビュー曲「poker face」などの作曲を手がけた星野靖彦や、活動再開をしたばかりの小室哲哉を作曲として迎え、3作連続シングルリリースし、『ayumi hamasaki Rock'n'Roll Circus Tour FINAL 〜7days Special〜』と題して、代々木体育館で7日間ツアーファイナルを開催した。8月より、日本のアーティストとしては初のデジタル3Dでのライブコンサート映画『A3D ayumi hamasaki ARENA TOUR 2009 A 〜NEXT LEVEL〜』が公開。12月には、浦田直也との共作「Dream ON」をリリース。浜崎が自分以外のアーティストの作品を手掛けるのは今回が初となった。, 2011年1月、前年PVで共演したオーストリア人モデル・俳優と結婚。(翌12年1月に離婚するも、アメリカのみでの入籍・離婚であった), 2012年8月8日、ベストアルバム『A SUMMER BEST』をリリース。このベストアルバムのリリースによりシングル、アルバムの総売上枚数が5000万枚を突破し、B'z、Mr.Childrenに続き、史上3組目、5年5か月ぶりの記録を達成した。総売上枚数が5000万枚を越えたのはソロアーティスト並びに女性アーティストとしては史上初の快挙であった[13]。同年末、14回目の紅白歌合戦では自身初となる過去のヒットメドレーを披露。, 2013年4月8日にデビュー15周年を迎え、それを記念して、2012年11月8日から2013年3月8日までの毎月8日に5ヶ月連続でリリースを行った。同年にはデビュー15周年を記念して『ayumi hamasaki 15th Anniversary TOUR 〜A BEST LIVE〜』を開催。同年末、15回目となる紅白歌合戦に出場し、6年連続でトップバッターとして2004年「INSPIRE」を披露。, 2014年11月23日、15年連続で出場・史上最多となる6回のトップバッターを務め、番組功労者でもあったNHK紅白歌合戦の同年選考から漏れることがNHK側から事前に通達される。浜崎自身は「ひとつの終焉」と受け止め、同番組の卒業を自身のツイッターにて発表した[14]。この頃からCDの制作に時間をかけるようになり、シングルのリリースを控え、アルバムに専念するようになる。, 2015年4月22日、法務省の特別矯正監を務める杉良太郎の呼びかけで、刑務所や少年院へ慰問し講演、歌唱などを通じて受刑者の改善更生を図ることを目的とした同省初の「矯正支援官」に就任[15]。, 2016年3月28日、『A BEST』のリマスター版である『A BEST -15th Anniversary Edition-』を発売した。また、年末恒例となっていたカウントダウンライブの会場である国立代々木競技場第一体育館が、2017年春より約2年間の耐震補強工事のため使用ができず、同会場にてのカウントダウンライブが17年目である本年度の公演をもって一旦終了となった[16]。, この頃からアルバムや新譜制作などを控え、ライブツアーやイベント等を中心に専念したり、InstagramなどSNSをメインに発信するようになる。, 2018年4月にデビューから20周年を記念して、全国アリーナツアー『ayumi hamasaki ARENA TOUR 2018 〜POWER of MUSIC 20th Anniversary〜』が開催された[17]。, 2019年8月1日、浜崎あゆみおよび松浦勝人への取材を元にまとめた小松成美の小説[注 1]『M 愛すべき人がいて』(幻冬舎)が発売され[18]、初週3.8万部を売り上げた。同著を原作としたテレビドラマが2020年4月からテレビ朝日系で放送開始されたが[19]、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で5月9日に予定されていた第4話以降の放送が延期される[20]。, 2020年1月、前年11月に第一子の男児を出産していたことを公表。結婚はしていない。, 2020年2月20日、全国ツアー「ayumi hamasaki TROUBLE TOUR 2020 A 〜サイゴノトラブル〜」を埼玉県三郷市でスタートさせたが[21]、翌21日の同地での公演を最後に、新型コロナウイルス感染拡大を受けての開催自粛に入り、5月19日、最終的に残り全公演計36公演の中止が発表された[22]。, 2020年7月5日、ドラマ『M 愛すべき人がいて』の最終回に合わせて、約2年ぶりの新曲「オヒアの木」が配信限定リリース。この曲名は、浜崎オリジナル曲として初めての日本語タイトル[23]。, 2020年10月2日、第2子妊娠が発表される[24]。相手の男性は、関係者によると、第2子の父親も第1子と同じ男性だという。[25], 2007年から初の日本国外での公演(台北、香港、上海)を含むライブツアーを本格的に行い、東アジア地域への進出も果たしている。歌手デビュー前にボイストレーニングのために渡米しているが、デビュー当時は英語は不得意とコメントしており[どこ?