山上憶良とは. 秋桜(コスモス)、菊、葉鶏頭、彼岸花、白粉花(おしろいばな) 、秋海棠(しゅうかいどう)、赤飯(あかまんま)。, 奈良時代から、引き継がれてきた山上憶良の「秋の七草」を楽しむ流れは、今もなお派手さを見せることもなく、静かにこの日本に鎮座している。, 昔働いていたベンチャー企業で、派遣者の住まいを見つけるために100件以上の賃貸契約を結ぶという経験により、賃貸物件の探し方ノウハウを身に着けた。 はじめに このテキストでは、万葉集に収録されている歌「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむそ」の現代語訳・口語訳と解説、そしてその品詞分解を記しています。 ※万葉集は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最 「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」, 秋の七草とは?その時期はいつ?花言葉は?名前の覚え方や意味や由来についてご紹介します. 駅前の不動産屋は役に立たない! ※ウィキペディアから引用, その草花は次の七つ。 SEASNALATURE(シズナレイチャー) All Rights Reserved. ¨é›†ã—たものである, 山上憶良:その生涯と貧窮問答歌, 山上憶良:子を思う歌(万葉集を読む), 山上憶良:日本挽歌と大伴旅人との交友, 山上憶良:七夕の歌(万葉集を読む), 山上憶良:惑へる情を反さしむる歌, 山上憶良:好去好来の歌(遣唐使を送る), 山上憶良:我が子の死を悼み恋ふる歌, 山上憶良:沈痾自哀の文(万葉集を読む), 山上憶良:去りし日の青春と今生きる老年. その歴史は奈良時代である8世紀初頭から引き継がれおり、非常に長く続いているのです。, その始まりは、”山上憶良”が数ある花の中から秋を代表する七種の草花を歌に残したことで生まれたと言われています。, 「萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花 おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花」 NHKは合法的に撃退できる!. 山上憶良: 山上憶良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。 この二首を詠んだ”山上憶良”のデータをご紹介しておきます。 氏名:山上憶良(やまのうえおおくら) 職:万葉歌人、国主 出自:不明,百済系渡来人説など諸説がある。 経歴:702年遣唐使の随員として渡唐。 帰国後伯耆(ほうき)守→東宮侍講を経て筑前守となり,大宰帥(だざいのそつ)大伴旅人と交遊を深めた。 出自:不明,百済系渡来人説など諸説がある。 さらに派遣先の社員へ「NHKから契約を迫られた時の対応方法」についての対策を教える経験から、NHK撃退方法のノウハウを身につけた。 この説の正しいとされたのは、植物学者の”牧野富太郎博士”{1862年(文久2年)~1957年(昭和32年)}の説によるものです。, ”山上憶良”が詠った「朝顔」は、朝顔(あさがお)、昼顔(ひるがお)、木槿(むくげ)とも、桔梗(ききょう)の4つの説がありましたが、桔梗であるというのが有力な説です。, (2)万葉集の別の歌の中には「朝顔は夕方に咲くのが見事」というものがあり、現代の朝顔とは特徴が異なる。, (3)木槿(むくげ)については、中国のから入ってきた草花であり、自然に自生しているとは考えられないのと、万葉集の時代に木槿が日本に在ったという証拠が乏しい。, (5)山上憶良が生きていた時代から200年ほどたった平安時代に書かれた漢和辞典の「桔梗」の項で、阿佐加保(あさがお)と振り仮名が振られている。, 以上の理由で、山上憶良が詠った「朝顔」は「桔梗」であるというのが、正しい説であると牧野博士は説いており、それが正しいとされているのです。, 歌人であり国文学者の”土屋文明{つちや ぶんめい、1890年(明治23年)~1990年(平成2年)}はこの歌は「普通の記載文であって特に取り上げる程の特色のないもの」という評価をしていました。, ところが土屋文明よりも世代が少し後の万葉学者の第一人者である”伊藤博”{いとう はく、1925年(明治58年)~2003年(平成15年)}は二首目の「また」に注目した。, 「萩の花 尾花葛花(くずはな) なでしこの花 おみなえし また 藤袴(ふじばかま) 朝顔の花」, この「また」という言葉は「あだやおろそかに用いられたはずがない」と指摘し、新しい画期的な解釈を発表したのです。, 一首目の「指折り(およびをり)」という言葉は子供に呼びかける俗称で「指を折り数えている動作の投影」であること。, 「また」とは指を折り数えていき、5本の指になったところで別の手に変えて数える動作であると解釈したのです。, この時代の国主には、自分の配下に属する郡を巡察し、百姓の生活の状態、風俗を観て廻るという任務があった。, この任務を遂行中に見かけた野に遊ぶ子供をを前にして、呼びかけた言葉なのではないか?, 山上憶良は筑紫の野原で、花をちぎって駆け巡るの子供達を見て、世に言う秋の七草の花の名を教えたくなる気持ちが湧き上がったのではないか。, だとすればこの二首かた伝わるのは、筑紫の秋の光の爽やかに注ぐ野原で駆け巡る子供達を前に、相好を崩しながら秋の七草を指折り数え挙げている好々爺山上憶良の微笑ましい姿を思い浮かべることができる。, この伊藤博の新しい解釈によって、この山上憶良の平凡であった二首に新たなる意味と生命の息吹が生み与えられることになったのです。, 氏名:山上憶良(やまのうえおおくら) 7~8ページ/山上憶良の人物紹介/伯耆国のゆかりの地(pdf 12,219kb) 9~10ページ/伯耆国のゆかりの地(pdf 3,189kb) 11ページ/門部王、柿本人麻呂の人物紹介(pdf 2,036kb) 12ページ/ゆかりの万葉歌人年表(pdf 2,036kb) 13ページ/万葉集の基礎知識(pdf 1,699kb) 山上憶良は、春日氏の一族にあたる皇別 氏族の山上氏(山上臣) の出自とされる 。 。(山上氏の祖は山上健豆とされる)山上の名称は大和国 添上郡山辺郷の地名に由来するとされ 、山於(やまのえ)とも記される 。. 「万葉集」には長歌11首,短歌68首,旋頭歌(せどうか)1首(作者に異説のあるものを含む)のほか漢詩,漢文の作品もあり,〈貧窮問答歌〉にみられるような思想性・社会性を特色とする。 また和歌の編纂(へんさん)物《類聚歌林》があったというが現存しない。 Copyright© 短歌のこと , 2020 All Rights Reserved Powered by STINGER. 山上 憶良(やまのうえ の おくら)は、奈良時代初期の貴族・歌人。名は山於 億良とも記される。姓は臣。官位は従五位下・筑前守。, 山上憶良は、春日氏の一族にあたる皇別氏族の山上氏(山上臣)[1]の出自とされる[2][3]。(山上氏の祖は山上健豆とされる)山上の名称は大和国添上郡山辺郷の地名に由来するとされ[2]、山於(やまのえ)とも記される[2]。, 一方で日本文学界において万葉学者の中西進が、憶良は天智・天武両天皇の侍医を務めた百済人憶仁[注釈 1]の子で、百済の滅亡に際して父親と共に日本に渡来、近江国甲賀郡山直郷に住み着いたことから山上氏を称するようになったが、次第に土地の有力氏族である粟田氏に従属し同族化していったとする説を唱えている[4]。この説に対しては、青木和夫、佐伯有清が、歴史学の立場から批判を加えている[5]。古市黒麻呂と同類である。(西坊『西坊家口伝集続々』2015年), 大宝元年(701年)第八次遣唐使の少録に任ぜられ、翌大宝2年(702年)唐に渡り儒教や仏教など最新の学問を研鑽する(この時の冠位は無位)。なお、憶良が遣唐使に選ばれた理由として大宝の遣唐使の執節使である粟田真人が同族の憶良を引き立てたとする説がある[6]。和銅7年(714年)正六位下から従五位下に叙爵し、霊亀2年(716年)伯耆守に任ぜられる。養老5年(721年)佐為王・紀男人らと共に、東宮・首皇子(のち聖武天皇)の侍講として、退朝の後に東宮に侍すよう命じられる。, 神亀3年(726年)頃筑前守に任ぜられ任国に下向。神亀5年(728年)頃までに大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人と共に、筑紫歌壇を形成した。天平4年(732年)頃に筑前守任期を終えて帰京。天平5年(733年)6月に「老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」を[7]、また同じ頃に藤原八束が見舞いに遣わせた河辺東人に対して「沈痾る時の歌」[8]を詠んでおり、以降の和歌作品が伝わらないことから、まもなく病死したとされる。, 仏教や儒教の思想に傾倒していたことから、死や貧、老、病などといったものに敏感で、かつ社会的な矛盾を鋭く観察していた。そのため、官人という立場にありながら、重税に喘ぐ農民や防人に取られる夫を見守る妻など、家族への愛情、農民の貧しさなど、社会的な優しさや弱者を鋭く観察した歌を多数詠んでおり、当時としては異色の社会派歌人として知られる。, 抒情的な感情描写に長けており、また一首の内に自分の感情も詠み込んだ歌も多い。代表的な歌に『貧窮問答歌』、『子を思ふ歌』などがある。『万葉集』には78首が撰ばれており、大伴家持や柿本人麻呂、山部赤人らと共に奈良時代を代表する歌人として評価が高い。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に5首が採録されている[9]。, なお、2019年5月1日から使用されている元号「令和」の典拠として、巻5の梅花の歌32首(815-846)の序文が採用されたが、山上憶良を序文の実作者とする説がある[10]。, 赴任先の太宰府市はもとより筑後、筑豊地方の嘉麻市などに歌碑が多数存在する(有名な句はほとんどこの地で詠まれている)。また、「子等を思う歌一首」とその反歌とが、岐阜県神戸町の神戸町役場入口ロビーに、書家の日比野五鳳による書として彫り込まれたものがある。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=山上憶良&oldid=80286648, 神代(かみよ)より 云(い)ひ伝(つ)て来(く)らく 虚(そら)見(み)つ 倭国(やまとのくに)は 皇神(すめかみ)の いつく(厳)しき国 言霊(ことたま)の 幸(さき)はふ国(くに)と 語(かた)り継(つ)ぎ 言(い)ひ継がひけり・・・, いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(唐にて詠んだ歌)(『万葉集』巻1-63、『新古今和歌集』巻10-898), 憶良らは 今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も 吾(わ)を待つらむそ(『万葉集』巻3-337), 秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花(『万葉集』巻8-1537), 瓜食めば 子供念(おも)ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ 何処(いづく)より 来たりしものぞ 眼交(まなかい)に もとな懸りて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ(『万葉集』巻5-802), 世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば(『万葉集』巻5-893), 士(をのこ)やも 空しくあるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして(『万葉集』巻6-978). みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる「死にたまふ母」斎藤茂吉『赤光』. この二首を詠んだ”山上憶良”のデータをご紹介しておきます。 氏名:山上憶良(やまのうえおおくら) 職:万葉歌人、国主 出自:不明,百済系渡来人説など諸説がある。 経歴:702年遣唐使の随員として渡唐。 田村大嬢が書いた万葉集についてまとめました。掲載数 全 6 首歌番号本歌第4巻759番歌いかならむ時にか妹を葎生の汚なきやどに入りいませてむ第8巻1449番歌茅花抜く浅茅が原のつほすみれ今盛りなり我が恋ふらくは第8巻1506番歌故郷の奈良思... 丹生女王が書いた万葉集についてまとめました。掲載数 全 3 首歌番号本歌第4巻553番歌天雲のそくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも第4巻554番歌古人のたまへしめたる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ第8巻1610番歌高円の秋野の上の... 彦星は 織女と 天地の 別れし時ゆ いなうしろ 川に向き立ち 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 青波に 望みは絶えぬ 白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づき居らむ かくのみや 恋ひつつあらむ さ丹塗りの 小舟もがも 玉巻きの 真櫂もがも [一云 小棹もがも] 朝なぎに い掻き渡り 夕潮に [一云 夕にも] い漕ぎ渡り 久方の 天の川原に 天飛ぶや 領巾片敷き 真玉手の 玉手さし交へ あまた夜も 寐ねてしかも [一云 寐もさ寝てしか] 秋にあらずとも [一云 秋待たずとも]. 万葉集の代表作短歌・和歌20首 額田王,柿本人麻呂,山上憶良,大伴家持 更新日: 2020年10月28日 万葉集の代表的な短歌としてあげられるもの、20首を選んでみました。 第8巻1537番歌はこちらにまとめました。第8巻 1537番歌巻第8巻歌番号1537番歌作者山上憶良題詞山上憶良詠秋野花二首原文秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花 訓読秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花 かなあきののに さ 山上憶良:その生涯と貧窮問答歌: 山上憶良は、人麻呂、赤人を中心に花開いた万葉の世界にあって、他の誰にも見られない独特の歌を歌い続けた。憶良は人麻呂のように儀礼的な歌を歌わず、赤人のように叙景的な歌をも歌わなかった。 山上憶良とは. 万葉集の代表作短歌・和歌20首 額田王,柿本人麻呂,山上憶良,大伴家持 更新日: 2020年10月28日 万葉集の代表的な短歌としてあげられるもの、20首を選んでみました。 丹比部國足が書いた万葉集についてまとめました。掲載数 全 1 首歌番号本歌第20巻4329番歌八十国は難波に集ひ船かざり我がせむ日ろを見も人もがも, 石川賀係女郎が書いた万葉集についてまとめました。掲載数 全 1 首歌番号本歌第8巻1612番歌神さぶといなにはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも, 大石蓑麻呂が書いた万葉集についてまとめました。掲載数 全 1 首歌番号本歌第15巻3617番歌石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ, 大伴利上が書いた万葉集についてまとめました。掲載数 全 1 首歌番号本歌第8巻1573番歌秋の雨に濡れつつ居ればいやしけど我妹が宿し思ほゆるかも. 今回は奈良時代の娯楽について、日本の歴史を紹介します。 「万葉集」の歌人として有名な山上憶良は、こうした貧しい農民に同情した1人です。 山上憶良がつくった貧窮問答歌は、「万葉集」のなかでも、最も優れた歌の一つとして知られ … 経歴:702年遣唐使の随員として渡唐。 秋の七草の季節となりました。 秋の七草というのは、何から来ているのかというと、万葉集にある山上憶良の短歌からなのです。, 山上憶良の選んだ七草とはどんなものだったのでしょうか。短歌と合わせてご紹介します。. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 詩を集めたのが詩集ですが、短歌、それよりも長い長歌、短歌に似ているが、字数が五七七五七七となる旋頭歌(せどうか)など、4536の歌が収められています。, 成立の時期は奈良時代の天平宝字3 (759) 年であって、7世紀前半から759年(天平宝字3年)までの約130年間の歌が収録されています。, 期間が長いこともあって、編者ははっきりしていないのですが、大伴家持という歌人が、中心になってまとめられたのではないかと考えられています。, 万葉集で有名な大伯皇女の短歌はこちらから 大津皇子 大伯皇女の万葉集の和歌まとめ 大津事件の悲劇, 短歌作品と作者、現代語訳と意味を書き添えます。 それぞれの歌の、詳しい解説ページがあるものは、リンク先を示しますので、合わせてごらんください。, 紫草の生えているこの野原をあちらに行きこちらに行きして、野の番人がみとがめるではありませんか。あなたがそんなに私に袖をお振りになるのを, 私の弟を大和へ帰すというので待っているうちに夜が更けて、暁まで立ち尽しているうちに露にすっかり濡れてしまった, 詳しい解説のページ われもはや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり 「万葉集」意味と解説, あなたを待って恋しく思っていたら、あなたと見まごうかのように私の家の簾を動かして秋風が吹くのです, 関連記事: あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る/額田王の有名な問答歌, 春が過ぎて夏が到来したようだ 天の香具山に白い夏衣が干してあるのを見るとそれが実感できる, 詳しい解説のページ 春過ぎて夏来るらし白たへの衣干したり天の香具山/持統天皇/万葉集解説, 銀も金も玉も、いかに貴いものであろうとも、子どもという宝物に比べたら何のことがあろう, 詳しい解説のページ 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも 山上憶良 子どもを思う短歌 万葉集, 詳しい解説のページ 験なきものを思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし 大伴旅人「酒を讃むる歌」, 旅をする人が野宿する野に霜がおりたら、私の息子をその羽で守ってあげてください。空を飛ぶ鶴たちよ, 私、憶良はもう退出しましょう。家では、今ごろ子供が泣いているでしょう。その子を負っている母もきっと私を待っているでしょうから, 詳しい解説のページ 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ 山上憶良, 「防人に行くのは誰の夫かしら」と問う人を見るのがうらやましい。あの人たちは悲しみの物思いをすることもない, 生みの母を離れて以来こんなにどうしようもない思いは、いまだかつてしたことがなかったのに, ポイント:柿本人麻呂の妻を亡くして詠んだ歌です。挽歌のもっとも有名なものの一つです。, わが夫の君ともし二人で見るのでしたら、どんなにかいま降っているこの雪が喜ばしく思われることでしょうに, 朝の影のようにわが身はやせ細ってしまった。ほんのわずか逢っただけで去ってしまった娘のために, ポイント:いわゆる恋煩いの歌。「あさかげ」というのは、朝の影が細長く見えるところに、自分の身をなぞらえているのです。, 斎藤茂吉の短歌を一首ずつ解説、短歌全般、現代短歌など優れた作品を広く紹介していきます。ツイッターは@marutanka 「日めくり短歌」をツイート。ブログの説明は自己紹介、連絡先はこちらをご覧ください。. (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 令和は梅を詠んだ「梅花の歌32首の序文」から取られた令和だということで話題になりました。, 秋の七草は、万葉の時代からずっと続いて知られているものだということをご存知でしたか。, 秋の野に咲きたる花を指折り(およびをり)かき数ふれば七種(ななくさ)の花 -巻8 1537, 萩の花尾花葛花(くずはな)なでしこの花おみなえしまた藤袴(ふじばかま)朝顔の花 -巻8 1538, 芥川龍之介が、旋頭歌25首の連作で「越人」というのが、よく知られていますが、575の短歌になれた人からすると、不思議な揺らぎがあるようにも思えます。, 指を折って数えるということは、それだけ秋の花が数多く、豊かであるという意味になるでしょう。, ススキも「花」と作者は考えていたようです。もちろん植物学上は花で間違いありません。, 最後の朝顔には諸説あり、桔梗のことをいったという説、牽牛子(けんごし)、木槿(むくげ)の諸説があります。, 「また」は、接続詞ですが、この「また」が、一首目の「指を折って数える」に対応しているとされます。, そして、歌を読み上げて披露するときに、一種の合いの手のように、歌を調子に乗せるために、この箇所に用いられたと思われます。, 七という数字に関しては、中国において特に優れたものを選ぶのに「七賢人」など、七の数にを用いるものが多く、作者の頭にその数字があったのではないかとされています。, おそらく、この時代の歌の披露には、舞やジェスチャーを伴うとされていまうから、指を折りながら、「はぎのはな、おばな、くずばな・・・」と実際に数え上げるかのように、詠われたものでしょう。, いよいよ秋らしくなってきました。散策の際は、秋の野の花にも目を向けてみてくださいね。, 斎藤茂吉の短歌を一首ずつ解説、短歌全般、現代短歌など優れた作品を広く紹介していきます。ツイッターは@marutanka 「日めくり短歌」をツイート。ブログの説明は自己紹介、連絡先はこちらをご覧ください。. 国語は苦手だけど「銀」「金」「玉」のならびをうっすら記憶している、という人もいるかもしれませんね。 こちらは、『万葉集』に収録された、山上憶良の歌です。 銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及 巻8の1538, 二首一組になっており、二種目の「朝顔」の花は「桔梗」であるとされていますが、この話は後ほど解説致します。, この歌はとてもシンプルで、秋の野に咲いている花を指折り数えてみれば、七種類の花があり、それは「萩(おぎ)、尾花(おばな、ススキのこと)、葛(くず)、撫子(なでしこの)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗(ききよう)」の七つの草花であることを詠っているのです。, この歌がなんで注目をされて「秋の七草」と呼ばれ始め、ここに登場する七つの草花が初秋の代表的な鑑賞花の7つに選ばれる存在になったのか?この歌だけではピンとこないでしょう。, 七つの草花のうち一番最後にある「朝顔の花」は桔梗(ききょう)であるとされています。 秋の七草の季節となりました。秋の七草は誰が選んだのかというと山上憶良。万葉集にある山上憶良の短歌からなのです。山上憶良の選んだ七草とはどんなものだったのでしょうか。短歌と合わせてご紹介 … 職:万葉歌人、国主 はじめに このテキストでは、万葉集に収録されている歌「憶良らは今は罷らむ子泣くらむ それその母も我を待つらむそ」の現代語訳・口語訳と解説、そしてその品詞分解を記しています。 ※万葉集は、奈良時代末期に成立したとみられる日本に現存する最 山上憶良が書いた万葉集についてまとめました。掲載数 全 30 首歌番号本歌第1巻63番歌いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ第2巻145番歌鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ第3巻337番歌憶良らは今は罷らむ 社内報を担当している友人と飲んだ時に和歌を勉強していると口を滑らしたら(飲んでいる時なので少し自慢げに…(^_^;a)今度の社内報で農民の生活と和歌といったテーマで書いてくれと依頼を受けてしまいました。貴族文化が成熟してく 以外と知られていない「秋の七草」の存在。 「春の七草」は1月7日に七草粥を食べて、その年の無病息災を願う行事として一定の認知度があります。 秋にも七草があることは意外と知られていません。 それは、秋の七草は特別な行事として利用される草花ではなく、あくまでその美しさを鑑賞して楽しむための7つの草花なの... (1)山上憶良が生きていたときには今で言う「朝顔」は日本にはなく、もっと後の時代に中国から伝わった植物であるので、現代庭に咲いている蔓草の朝顔と歌に出てくる朝顔とは違うものだ。, 賃貸物件探しで審査に不安がある方へ!望むお部屋へ確実に入居できるチャットサービスの使い方!. 山上憶良: 山上憶良は、万葉の歌人のなかでもひときわ異彩を放っている。人麻呂のような相聞歌や赤人のような叙情性豊かな歌を歌う代わりに、貧困にあえぐ人の叫びや、名もなき人々の死を歌い、また子を思う気持ちや自らの老いの嘆きを歌った。 出自. 国語は苦手だけど「銀」「金」「玉」のならびをうっすら記憶している、という人もいるかもしれませんね。 こちらは、『万葉集』に収録された、山上憶良の歌です。 銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及 Copyright© 短歌のこと , 2020 All Rights Reserved Powered by STINGER.