史上7人目 の 三冠王 (竜王・名人・王将)の記録もあります。 タイトルの獲得数もすごくて、通算で12期 です。 森内九段は、とにかくすごい棋士のひとり! 2014年2月8日 第7回朝日杯将棋オープン戦準決勝 森内俊之名人・竜王 対 渡辺明二冠 このサイトをご覧頂くには、Adobe Flash Player9以上が必要です。 対森内俊之九段戦のページにもどる, 全34局で19勝15敗勝率55.9% å…¨æˆç¸¾(2014/12/04現在、不戦勝を除く)と比較して-11.6ï¼, 渡辺二冠先手番(千日手指し直しを含む)が18局で12勝6敗勝率66.7% å…¨æˆç¸¾ï¼ˆå…ˆæ‰‹ç•ªå‹çŽ‡ï¼‰ã¨æ¯”較して-4.2ï¼, 後手番(千日手指し直しを含む)が16局で7勝9敗勝率43.8% å…¨æˆç¸¾ï¼ˆå¾Œæ‰‹ç•ªå‹çŽ‡ï¼‰ã¨æ¯”較して-20.5ï¼, 全34局中棋譜データがある34局(千日手局を含む)の戦型について, 矢倉型の将棋が12局(渡辺6勝 森内6勝)で一番多いです。, 次に多いのが渡辺二冠が後手番での横歩取り(渡辺4勝 森内5勝)と角換わり型の将棋(渡辺6勝 森内2勝 1千日手)で9局です。, そのほかは、森内九段が後手番での右玉(森内勝ち)、三間飛車(渡辺勝ち)、4手目△3三角からの四間飛車(渡辺勝ち)、渡辺二冠が後手番での四間飛車(森内勝ち)です。, 矢倉型の将棋について詳しく見ると、相矢倉(ウソ矢倉を含む)の将棋は、渡辺二冠が先手番で3勝2敗、後手番で1敗です。それ以外の矢倉は渡辺二冠が先手番で2勝、後手番で1勝、森内竜王が先手番で2勝、後手番で1勝です。, 角換わり型の将棋について詳しく見ると、後手から△8八角成とする一手損角換わりは渡辺二冠が先手番の時のみで5局(渡辺3勝 森内2勝)渡辺二冠が先手番での角換わりは1勝、後手番での角換わりは2勝1千日手です。, 全34局中棋譜データがある33局(千日手局を除く)の手数について, それより多いのが16局(渡辺7勝 森内9勝), 少ないのが17局(渡辺11勝 森内6勝), 全34局中持ち時間について(渡辺二冠からみた勝敗), 持ち時間8時間の対局は9勝7敗, 持ち時間6時間の対局は1勝1敗, 持ち時間5時間の対局は3勝2敗, 持ち時間3~4時間の対局は3勝3敗, 持ち時間1時間未満の対局は3勝2敗. 銀河戦本戦トーナメントcブロック8回戦にて、森内俊之九段と藤井聡太七段の対局が行われます。藤井七段は出口若武四段と中村修九段に勝利しています。勝者は郷田真隆九段との対局となります。また、森内九段と藤井七段の対局が見られるのが嬉しいです。 日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月 - 2011年3月)、日本将棋連盟専務理事(2017年5月 - 2019年6月 )を歴任した。 など, 「将棋マガジン」(日本将棋連盟)1996年6月号『佐藤康光&森内俊之のなんでもアタック』, 成銀で取らせて相手の攻めを一手遅らせる意味の手。この▲4八金は「絶妙の一手」と言われ、また、後に, 「第70期名人戦七番勝負第6局-堂々の防衛劇」 『将棋世界』 2012年8月号、6-17頁。, 現行の制度上、宣言者がフリークラスに在籍できる最長年数は23年(満42歳以下で翌期順位戦でB級1組所属が決まっている場合), 『パネルクイズアタック25公式ファンブック―読めば25倍面白くなる』(アタック25番組40周年特別委員会編、, https://web.archive.org/web/20181017065125/https://mainichi.jp/articles/20181017/k00/00e/040/323000c, Spopre.com - 将棋は頭脳スポーツだ 棋士列伝第一回 十八世名人森内俊之, 青葉区版『3月10日(土)に「もえぎ野センター」で講演会イベントを行う青葉区出身の将棋名人 森内 俊之さん』, 森内名人、必勝の「カツカレー定跡」で竜王奪還なるか なぜかカレーに注目が集まった竜王戦第5局、結果は……, 三菱電機 IHクッキングヒーター:「びっくリングIH」の5周年特設サイト 森内九段インタビュー, https://www.youtube.com/watch?v=GStg7wCr0xQ, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=森内俊之&oldid=80430588, B級2組 - C級2組の*は降級点の数(B級2組・C級1組は2点、C級2組は3点で降級), ()内は連勝数。5連勝以上で公式棋戦優勝相当。連勝が次年度に継続した場合も勝抜きの対象。2003年(第22回)で終了。, 第32回(2005年)で廃止、第33回(2006年)より新たな敢闘賞を創設。前年度の活躍が対象。, 初の名人位に就いた翌月(2002年6月)に、東京都内の私立大学の教員(国文学)を務める女性との, 名人戦、王将戦など、1局2日制の対局であっても、定跡や研究手順であれば時間を使わず、1日目から手をどんどん進めることが多い。かつては、1日目に駒がぶつからないことが普通であったが、森内がタイトル戦で活躍し始めた頃から、(森内が登場しないタイトル戦でも)2日制の1日目に本格的な戦い、時には終盤の入り口まで進行することが多くなっている。, 事前に対局相手と先後が決まっている順位戦では無類の強さを誇っており、第73期(2014年度)にA級順位戦を4勝5敗で負け越すまで名人在位を除く全ての年度で勝ち越していた。1990年度(当時C級2組)の途中から1992年度(当時B級2組)にかけては順位戦26連勝を記録した。順位戦通算勝率は2007年度までの時点では8割を超えていた(114勝28敗、0.803)。, 郷田真隆と戦った第65期名人戦の第1局1日目(2007年4月10日)の午後、森内の手番(24手目)のときに郷田が扇子を開け閉じして音を鳴らしたため森内が苦情を訴えた。立会人の, 『実戦の詰将棋-初段120題 実力判定初段のカベを破る最強の寄せ』(成美堂出版、2001年1月、, 毎日新聞社編著 『第60期将棋名人戦-名人丸山忠久・挑戦者森内俊之』(毎日新聞社、2002年7月、, 読売新聞社編著 『竜王決定七番勝負 激闘譜 第16期』(読売新聞社、2004年2月、, 読売新聞社編著 『第十七期竜王決定七番勝負 激闘譜-森内俊之vs.渡辺明』(読売新聞社、2005年2月、, 毎日新聞社編著 『第64期将棋名人戦七番勝負-名人森内俊之・挑戦者谷川浩司』(毎日新聞社、2006年8月、, 毎日新聞社編著 『第65期将棋名人戦七番勝負-森内俊之VS.郷田真隆』(毎日新聞社、2007年8月、, 毎日新聞社編著 『愛蔵版 第66期 将棋名人戦 七番勝負』(毎日新聞社、2008年9月、, 森内俊之・羽生善治 共著 『羽生VS森内 百番指し』(日本将棋連盟、2011年1月、. 会員にならず、この対局のみを有料で見ることもできるようです。(Liveチケットを購入、前売り券500円、当日券700円), 羽生九段は、将棋を知らない方にも有名ですが、森内九段も、それに勝るとも劣らない実績の棋士、と言ってもいいと思うくらい、すごい棋士さんです。, 8期も名人を務めました。(羽生九段は、森内九段から1年遅れての永世名人、19世名人です), 森内九段の、王将戦の1次予選の前回(2回戦)の対戦相手は、田中寅彦九段(61)でした。, 寅彦九段は、棋聖のタイトルを獲得、竜王戦1組通算9期、順位戦A級通算6期と、実力ある棋士です。, この森内戦も勝って、藤井七段と対戦したかったーって、ツイッターで発言があったり。(TVでは、「藤井七段と戦えたら冥土の土産に」とかジョークを飛ばすぐらい、熱烈だったので、私はちょっぴり寅彦九段を応援していました。), ツイッターや、TVの発言を見ていると、個性的で、決して61才とは感じさせない、エネルギッシュでダンディな棋士さん。, 珍しく、藤井聡太七段が振り駒で先手になって、おおーっと思ったのですが、150手過ぎまで、勝負がもつれて。, 17年9月に、NHK杯2回戦。その時は、藤井七段が戦ったそうです。(残念ながら、見てません), NHK杯は、持ち時間10分の超早指しなので、藤井七段の得意技ってところでしたが、今度は持ち時間短めの王将戦予選とはいえ、3時間あります。, 永世名人vs藤井聡太七段のこの対局、Abemeかニコニコで生放送で見たかったなー。これからも王将戦(と銀河戦)は将棋チャンネルと将棋プレミアムだけなのかなぁ。。。(大阪王将が新しくスポンサーに追加されたので、今年は他でも見やすくなるかと期待してました), 藤井七段がこれから何年か後に名人になる、それも永世名人になる、とすれば、今日の戦いは、新旧の永世名人の対局! ?となる。歴史に残る、かもしれない対局。, ただ、その前後で森内九段は15分(35手)、12分(37手)、19分(39手)とたくさん使っていますので、39手の時点では、残り時間は、森内九段の方が20分少ないです。, 52手、藤井七段が2歩得となる。藤井七段の手持ちの持ち駒は歩が3枚、森内九段の持ち駒は歩が1枚。, 64手、藤井七段が24分考えて、残り時間が23分になる(森内九段は残り時間37分), 92手、次の6九馬で、先手玉(森内九段)は受けなしとなる。(情勢が)はっきりしてきた、とのコメントが。, 残り時間が、森内九段が1分、藤井七段が5分、。1分将棋になる直前の森内九段の投了でした。, うーむ、嬉しいような、いや、藤井七段の勝利はもちろん嬉しいのです。ただ、森内九段に勝つ、というのは、世代の交代を感じてしまって(最近の羽生九段とか)、何とも複雑な感情もあり。. 森内俊之 行方尚史 第92期棋聖戦 二次予選 2回戦 2020年度 6勝4敗(0.600) 復活、藤井棋聖対森内名人のタイトルありますね 棋士番号は183。 勝浦修九段門下。 神奈川県 横浜市 青葉区出身。. それより多いのが16局(渡辺7勝 森内9勝) 少ないのが17局(渡辺11勝 森内6勝) 全34局中持ち時間について(渡辺二冠からみた勝敗) 持ち時間8時間の対局は9勝7敗; 持ち時間6時間の対局は1勝1敗; 持ち時間5時間の対局は3勝2敗 森内九段に勝ったのだから、藤井七段にはこのまま、挑戦者になるまで、勝ち進んで欲しい! なのです。 森内九段vs藤井七段の対局、考えただけでワクワクしますよね! ある将棋大会で森内の初手▲5八飛に対し、羽生の△5二飛という出だしの将棋があった[3]。, 5年生の頃、奨励会試験を受験するか迷った末、「自分はまだ力不足」だと判断し、翌年に受験することを決意。 森内 俊之(もりうち としゆき、1970年10月10日 - )は将棋棋士、YouTuber。十八世名人資格保持者。, 日本将棋連盟棋士会副会長(2009年4月 - 2011年3月)、日本将棋連盟専務理事(2017年5月[1] - 2019年6月[2])を歴任した。, 将棋を始めたきっかけは、森内が小学校3年生の頃、学校の休み時間にクラスメート内で流行していた、いい加減な将棋遊びに参加したという、ありふれたものだった。だが、このゲームに魅力を感じた彼は父親に手ほどきを受け、正式な将棋を指すようになる。, 家で将棋に熱中している森内の姿を見ていた彼の祖母は、あるとき、雑誌『将棋世界』を孫に渡した。『将棋世界』との出会いをきっかけに、森内は将棋の新しい世界を知り、将棋にのめりこんでいく。毎週土曜日に将棋会館で行われる将棋教室に通うなどし、本格的に将棋を学び始める。それから1年ほど経つと、各地のデパートで開催される将棋大会にも参加するようになった。, 同学年の羽生善治と出会ったのはこの頃だった。最初の対戦はある将棋大会の予選で森内が勝ち、次の対戦は同大会の決勝トーナメントで羽生が勝った。 対局 勝数 敗数 持局 勝率 先勝 先敗 先勝率 後勝 後敗 後勝率 持 千; 公式棋戦: 36: 16: 20: 0.4444: 6: 7: 0.462: 10: 13: 0.435: 0: 1 森内 俊之(もりうち としゆき、1970年 10月10日 - )はYouTuber 将棋棋士。 十八世名人資格保持者。. 第69期 大阪王将戦 一次予選 19年2月12日,池永天志はたかしと読み,19年にプロ入りで詰将棋得意らしい。藤井七段は19年に入って始めて!の振り駒先手,初手合わせの対局で楽しみ,2人のデータも... こんにちは ブログを始めて、約2ヶ月が経ちました。 記事の書き方にも少しずつ慣れ、 色付きの表が作れるようになったよ! 同時に、「棋士になる」という目標が明確になり、勉強にも熱が入るようになった。, 1982年、第7回小学生将棋名人戦で3位。このときの優勝者は羽生。同年12月、関東奨励会入り。同期合格者17名のうち、小学生は森内、羽生、郷田真隆の3名のみであった。この年度は受験者が多く、高い競争率であった。なお、二次試験で当時唯一の女性奨励会員だった林葉直子女流王将と香落ちで対局し、勝利している。, 三段の頃、島朗六段主宰の研究会(いわゆる「島研」)に、佐藤康光二段とともに参加、研鑽を積む。, 1987年5月13日にプロ入り(四段に昇段)。三段リーグ制度が復活する前に四段になった最後の棋士である。また、第22期新人王戦(1987年度)で、奨励会三段の時に出場し、途中で四段に昇段してそのまま優勝した。森内は、新人王戦最年少優勝記録(17歳0か月)を、2018年に藤井聡太が更新(16歳2か月)するまで保持していた[4]。なお、森内は新人王戦で通算3回優勝している。, また、第10回「若駒戦」(奨励会有段者による非公式棋戦)でも同様に、途中で四段になって優勝している。, プロ入り早々頭角を現し、1988年6月11日と89年5月27日に行われた、第7回・8回の早指し新鋭戦で2連覇。決勝戦の対戦相手は両年とも羽生善治五段であった。さらには、全棋士参加の大型棋戦である全日本プロトーナメント(第7回、1988年度)において、谷川浩司名人と決勝三番勝負を戦い、2勝1敗で谷川名人を破り、優勝した(1989年3月13日)。18歳5か月での優勝は、新人棋戦を除く公式戦に於ける史上4番目の年少記録である[5]。1988年度の将棋大賞で新人賞を受賞。, プロ入り後も向上心は旺盛で、特に前述した島研では、森内と佐藤が四段に昇段した後、羽生も加わり、4人体制での練習対局と感想戦を中心にした研究が行われ、刺激し合いながらの精進が続いた。, 順位戦での勝率は高く、C級2組を3期、C級1組を1期、B級2組を2期、B級1組を1期で抜け、合計わずか7期で最高クラスのA級まで上りつめた。そして初参加の1995年度A級順位戦で7勝2敗の成績を納め、1996年度第54期名人戦七番勝負の挑戦権を獲得。森内にとって、初のタイトル戦挑戦である。相手は、当時七冠王だった羽生善治名人。25歳同士の対戦であった。タイトル戦初対局となった第1局は、二つの意味で話題となった。一つは、相矢倉の将棋で、「壁銀」になるのをいとわず、3三にあった銀を△2二銀(40手目)と引く作戦に出たこと。もう一つは、1日目夕方の封じ手の定刻の間際、立会人の五十嵐豊一九段が「時間になりましたので」と言いかけたところで「指すつもりなんですけど」と言って△9四歩(44手目)を指し、羽生を封じ手の手番にさせたことである[6]。森内はこの対局に敗れ、そこから3連敗。第4局でタイトル戦初勝利をあげたものの第5局で敗れ、1勝4敗で敗退となった。森内は、第2局の敗戦を「こんな負け方がありうるとは…」、続く第3局の敗戦も「不思議な負け方」と、当時を振り返る。結果的に敗れはしたが、棋士冥利に尽きる名人戦だったという。それと同時に、羽生との差を痛感した名人戦でもあった。, 1996年度、NHK杯戦において、決勝で屋敷伸之七段を破って初優勝。同棋戦では、5年後の2001年度にも、佐藤康光王将を破り優勝した。, 2000年度、棋王戦の挑戦権を獲得。相手は、それまで9連覇を果たしていた羽生棋王であった。第25期棋王戦五番勝負(2001年)の結果は、1勝3敗での敗退。敗れはしたものの、名人戦の頃と違い、手応えを感じたという。, 全日本プロトーナメント(第19回、2000年度)において、谷川浩司九段との決勝五番勝負(2001年)を3勝2敗で制して2度目の優勝。同棋戦の最後の優勝者となる[注釈 1]。, 2001年度A級順位戦で、森内は8勝1敗の好成績を納め、丸山忠久名人への挑戦権を得る。2002年度の第60期名人戦七番勝負において丸山名人を4連勝で破り、31歳にして念願の初タイトルとなる名人位を獲得(2002年5月17日)。また、名人位に就いたことにより、将棋連盟規定により九段に昇段。, 2003年度は、第61期名人戦七番勝負において、4連敗で名人位を羽生挑戦者に奪取されるも、第16期竜王戦七番勝負では逆に4連勝で羽生竜王から竜王位を奪取。第53期王将戦七番勝負においても、羽生王将を4勝2敗1千日手で降し、王将位を奪取。さらにはA級順位戦史上初の9戦全勝[7]を果たし、羽生名人への挑戦権を獲得。2003年度将棋大賞で最優秀棋士賞を初受賞。, そして、2004年度の第62期名人戦七番勝負において、羽生名人に4勝2敗で勝ち、名人位を奪取。この時点で史上7人目[8]の三冠王(竜王・名人・王将)となり、最多冠保持者となった。また、2004年(1月-12月)の獲得賞金・対局料は1億円を突破した。, 王座戦では、当時12連覇中だった羽生王座への挑戦権を獲得するも、1勝3敗で奪取には至らず。また、同年度、三冠のうち竜王位を3勝4敗で渡辺明七段に、王将位を4連敗で羽生二冠にそれぞれ奪われ、保持するタイトルは名人の一冠のみとなる。, 第63期名人戦七番勝負(2005年度)に挑戦者として名乗りを挙げたのは、A級順位戦を8勝1敗で制した羽生。第1局で逆転負けし、対羽生戦8連敗を喫する。しかし、第2局では終盤で羽生が残り16分のうち12分を費やして打った△4五歩(右図参照)をとがめる絶妙の一手▲4八金[9]で逆転勝ちを収める。結果、この七番勝負では4勝3敗で名人位を防衛した。これで羽生の永世名人資格獲得(通算5期)を2年連続で阻止したことになる(2年後、羽生より一歩先に永世名人の資格を獲得)。, 2006年(2005年度)、羽生から棋王を奪取して二冠(名人・棋王)となる(棋王は翌年佐藤康光に奪われる)。, 2006年の名人戦(第64期)では、十七世名人の資格を持つ谷川浩司の挑戦を4勝2敗で退ける。この七番勝負で森内自身が最も印象的に残った局面は、第1局の86手目と90手目に、自陣の8二、7二に2枚の銀を打ち並べるという珍しい受け方で、我慢したところであったという[10]。, 2007年6月29日、第65期名人戦で郷田真隆の挑戦を受け、4勝3敗で防衛。通算5期獲得となり永世名人(十八世名人)の資格を得た[11][12]。, 2008年3月25日、第21期竜王戦5位決定戦1回戦で中原誠十六世名人に敗れ、2組へ降級。タイトルホルダーの2組降級は、1991年9月20日の羽生棋王(当時)以来、2人目。, 2008年6月17日、山形県天童市の「天童ホテル」で行われた名人戦第6局で羽生に敗れ、無冠の九段に後退[13]。一方の羽生は、森内に1年遅れで永世名人(十九世名人)の資格を得た。永世名人が2年連続で誕生したのは史上初。, 以降、名人戦以外のタイトル戦からもしばらく遠ざかっていたが、第22期(2009年度)竜王戦で深浦康市との挑戦者決定三番勝負を2勝1敗で制し、渡辺竜王へ挑戦。5年前とは立場を換えての対決となったが、4連敗のストレート負けとなった。, 第69期(2010年度)A級順位戦で優勝し、羽生名人への挑戦権を獲得。同時に、順位戦デビューの第47期から続く順位戦勝ち越し連続記録(名人在位を含む)を23期に伸ばした。永世名人同士の対決となった第69期名人戦七番勝負第2局(2011年4月20日 - 21日)で挙げた勝利は、史上15人目の通算800勝(433敗)となった(将棋栄誉敢闘賞)[14]。その後名人戦は3連勝後に3連敗を喫して最終戦までもつれ込み、2011年6月22日に山梨県甲府市・「常磐ホテル」にて行われた最終第7局を123手で制し、遂に名人位を奪還。永世名人同士の七番勝負は過去にもあるが、自身より後の永世名人から名人位を奪取したのは森内が初。2011年度は、名人位を奪取したものの他棋戦の成績が振るわず、年度勝率は3割台に落ち込んだ。, 2012年度の第70期名人戦七番勝負では、A級順位戦を全勝した羽生二冠の挑戦を受けた。シリーズ前に森内の苦戦を予想する声があったが[15]、4勝2敗で名人位を防衛。, 2013年度の第71期名人戦七番勝負では、前年に引き続き羽生三冠の挑戦を受けた。羽生との名人戦は3年連続で8度目となったが、4勝1敗で名人位を防衛。この年の名人戦は、星の差だけでなく将棋の内容においても、「一方的」であった[16]。さらに、竜王戦においては、決勝三番勝負で郷田九段に勝ち、挑戦権を獲得。第26期竜王戦七番勝負では、かつて森内から竜王位を奪取して以来、9連覇中だった渡辺明竜王を4勝1敗で破り、竜王位を奪還。渡辺竜王の10連覇を阻止した。(対戦前、森内は、この竜王戦は非常に厳しい戦いになることを予想し、渡辺竜王になんとか2勝することを現実的な目標として考えていた)[17]。竜王位・名人位の2大タイトルを手中に収め、これらの活躍により、2013年度将棋大賞で2度目の最優秀棋士賞を受賞した[18]。, 2014年度の第72期名人戦七番勝負では、今回で3年連続となる羽生三冠の挑戦を受ける。羽生との名人戦はこれで4年連続9回目。結果は4連敗で、名人位を失冠。その直後に始まった第85期棋聖戦五番勝負で羽生棋聖に挑戦するも、再び3連敗のストレート負けを喫し、奪取はならなかった。, 第27期竜王戦七番勝負では、糸谷哲郎七段の挑戦を受けるが、1勝4敗で敗れ、竜王位の防衛に失敗。第64回NHK杯テレビ将棋トーナメントでは、1回戦はシード、2回戦から、木村一基八段、羽生善治名人、菅井竜也五段、深浦康市九段、決勝戦で行方尚史八段に勝ち、同棋戦において自身3度目の優勝を果たした。, 2016年度の第75期A級順位戦(降級1名)では、2017年2月25日の9回戦の結果、3勝6敗で佐藤康光と同成績ながら頭ハネで最下位となり、22期連続で在籍したA級(名人在位も含む)からB級1組への降級が決まった[19]。永世名人資格保持者のB級1組への降級は中原誠、谷川浩司に続いて3人目であった。, 森内は、2016年度が終了する直前、2017年3月31日にフリークラス転出を宣言し、日本将棋連盟を通じてコメントを発表した(連盟への届け出は3月24日であった)[20]。B級1組からのフリークラス宣言は米長邦雄・中原誠に次いで3人目。このうち、A級からの降級直後にフリークラス宣言をしたのは、米長に続いて2人目であった[21]。, フリークラス転出の時点で満46歳であった森内は、翌期の順位戦B級1組所属が決まっていたため、満65歳となる2035年度までの19年間フリークラスに在籍できるが、実際に森内が2035年度まで現役を続けた場合、宣言者のフリークラス在籍年数最長記録となる[22]。, 2017年8月6日、将棋日本シリーズ1回戦で久保利明に勝ち、史上12人目の通算900勝を達成した[23]。, QuizKnockの動画[注釈 2]『【東大VS天才棋士】東大生4人vs天才棋士・森内九段!どちらが勝つ!?【検証】』(2019年9月27日公開[58])