名無しさん@NPB好き, ノムさんが居なくなって、今まで何十年も彼が担ってきたやきう界の広報担当役員の座が空席になってしもうた。, 4. 1: 名無しさん 20/02/16(日)23:26:24 id:bjt 1(遊)ヤクルト関係者に頭を下げ「一場をクビにしないでやってくれ」2(二)楽天退団時、共に退団しようとした山田勝彦に「嶋が心配だ。1年だけでいい。俺の代わりに傍にいてやってくれないか」3(一)母親から貰ったお守り 野村克也の持っていた併殺世界記録に並んでいた模様 新記録の樹立も時間の問題と思われる 2 : 風吹けば名無し 2019/05/10(金) 20:52:03.92 ID:zqK3zrjga.net 元巨人軍代表が書いた阪神、広島球団とは? 野村 克也(のむら かつや、1935年〈昭和10年〉6月29日 ‐ 2020年〈令和2年〉2月11日[1][2])は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身[3]のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督、野球解説者・野球評論家。, 選手としては、史上2人目・パ・リーグ初の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位(捕手としては最多)、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算塁打数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠飛)、通算併殺打1位(378打)、最多記録となるベストナインを19回受賞、パリーグ最多記録となる本塁打王を9回獲得、打点王を7回獲得、パリーグ最多記録となる最優秀選手を5回受賞などの記録を持つ[4]。, また、監督としても「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の最多勝利記録(1,053勝)を保持する。監督として1563敗は歴代1位[5]。プロ野球では南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。, 野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球のシダックス、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督[6][7]。2010年から亡くなるまでサンケイスポーツの野球評論家を務めた。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。, 通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録した球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献した。, 生前は前述の「ノムさん」の愛称の他にも、「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」などと呼ばれることがあった。ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。, 生涯で二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代(2017年死別)である。沙知代との間に息子・野村克則がいる。前妻との間にも息子が1人いる。継子(沙知代の連れ子)に団野村、ケニー野村がいる。, 生前、自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐していた通り、幼少の時から亡くなる直前まで、第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなすなど、仕事に対する執着心は非常に強かった。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3,017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3,204試合と3,000試合の大台に乗せている。また、通算打席数(11,970打席)と通算打数(10,472打数)も歴代1位記録である。, 京都府京丹後市出身。実家の家業は食料品店。日中戦争に出陣した父・要市は3歳のときに満州にて戦死したというが、実際は道端の供え物の柿を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。網野町は丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。看護師だった母・ふみは病弱で野村が小学校2年生と3年生のときに二度も癌を患い、一家は極貧といっても過言ではない状況に陥った。家計を少しでも助けるため、野村は小学校1年生の頃から兄とともに産経や地元紙などの新聞配達[8][9]やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。また、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来た。, 貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたが[9]、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘への憧れや、出身地にほど近い兵庫県出石郡出石町にて名を馳せていた大友工投手(後に読売ジャイアンツ等で活躍)の影響もあり、次第に野球選手を志すようになる。, 中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより、野村は京都府立峰山高等学校に進学した。その後に内緒で野球部に入部したことが母にばれ、退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。, 野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、野村が在学中も2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、甲子園など夢のまた夢だった。当時は廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人(当時は山本姓)だけが返事をくれた。 昭和のプロ野球史をひもとくたびにスポットライトを浴びてきたのはいつもonだった。人気で勝てなくとも実力で存在感を示したのが野村氏だったが、世間の関心は巨人の2人ばかり。そんな陰ひなたの奇妙な交差を振り返りたい。 野村氏を語るうえで切っても ヤクルトの前身、国鉄・サンケイ時代を含め、野村の勝利数、勝率はいずれもトップである[54]。, 現役晩年を野村指揮下で過ごした渡辺久信はヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。曰く、野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。, その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。, トーマス・オマリーは「監督、大好きね。リスペクトしているんだ」、「とにかく色々教わった。データから相手の強み、弱み。すべて理解し準備した上で試合に臨むことが重要だとね。」と述べている[55]。, 1998年10月25日に三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。久万俊二郎から野村に対して「今まで球団が監督要請をした中で、私が直接出てきてお願いするのは野村さんが初めてです」、「今、タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのにあたり、監督にふさわしいのは野村さんしかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右に出る者はいません」と熱く語ったという[56]。当時阪神球団専務だった野崎勝義によると、野村が連れてきたコーチはヘッドコーチに松井優典、投手コーチに八木沢荘六、打撃コーチに柏原純一の3人である[57]。他に多くの要望が来ると覚悟していたが、野村が注文を付けたのはこれだけである[57]。1985年の日本一以降長く低迷するチームの再建を託した野村に対する期待は大きく、就任時の会見では球団側から「野村監督様」と紹介されるなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。, 「野村TOP野球」(TOPとは、Total・Object lesson・Processの略語)をチームのスローガンとし、開幕直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(最初の購入者は落語家の月亭八方。総売上げ数は27個)。, オールスター戦を挟んで9連敗[58]、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わった[58]。, また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ起用(通称「遠山・葛西スペシャル」、遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一旦一塁を守って再度登板する)なども行った。, 1999年のオープン戦で、強肩の新庄を「投手心理を理解させるため」投手として起用。野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。6月12日の対巨人戦では新庄が敬遠球をヒッティングし、三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。サヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「好きにせえや!」と事実上のゴーサインを出している。, ダレル・メイが「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と放言[58]。文書で野村批判のビラを自ら配る[58]。メイはシーズン終了を待たずに解雇された[58]。, なおこの年の8月7日の対ヤクルト戦、3回表無死一・二塁で、阪神・湯舟敏郎が送りバント。一塁塁審の小林毅二は湯舟を一塁アウトと判定したが、野村は一塁ベースカバーのヤクルト・馬場敏史の足が送球を受けるより早くベースを離れたとして抗議。野村はセーフではないかと審判団に詰め寄り、その抗議の中で「このバカ」と暴言を吐いたため、小林は野村に退場を宣告し[59]、野村の野球人生で初めての退場処分となった[60][61]。, 2000年は、4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上した時は「今年は違うぞ」の印象を与えたが、すぐさま6連敗[62]。以降立て直しがきかず球団史上初の3年連続最下位に終わった[62]。チーム得点は両リーグ最低の2年連続400点台、投手陣も川尻哲郎が復調の気配を見せたぐらいだった[62]。2001年は、4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAで前年オフにニューヨーク・メッツへ移籍。厳しい状況の中、若手選手育成を掲げ、7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り出したが、打率・得点・本塁打はリーグ最下位、この年も順位は最下位。野村が招聘した松井、八木沢、柏原の3コーチは解任された(松井はフロント入り)[63]。, 2001年10月19日に野村の2002年シーズンの監督留任が発表され、ヘッドコーチに木戸克彦、投手コーチに佐藤義則、打撃コーチに和田豊を据える、翌シーズンの首脳陣も公表されていた[64]。秋季キャンプは指揮を執ったものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された12月5日に辞任を発表した[65]。なお著書「女房はドーベルマン」によると、野村は沙知代が逮捕されるまで脱税行為をしているとは知らなかったという。, F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地の甲子園球場が広いことや、新庄のメジャー移籍等で長距離打者が皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。, なお、この当時から俊足選手として重宝されていた田中秀太を忘れたため、発表翌日に「秀太忘れとった、F1エイトや」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった。なお、『野村ノート』(小学館)では「高波、藤本、沖原、秀太ら足の速い選手を7人集めて【F1セブン】といって売り出した。まぁ、沖原などは決して速いほうではなかったのだが、セブンの語呂がよかった」と説明している。, メディアでは「阪神では常勝チームとなる礎を築いた」などと紹介されることが多いが、最下位からの浮上は出来ず、あまり結果を残したとはいえない3年間であった。上述のように南海、ヤクルト時代とも多少なりとも戦力は揃っており、野村はそのチームの弱点(絶対的な抑え投手、捕手、1番打者などの不在等)を的確に改善してきた。しかし野村が監督をしていた当時の阪神は、本塁打を20本程度打てるものの三振も多く規定最低打率を争う状態だった新庄と桧山進次郎がクリーンナップとして出場するなど、過去2球団と異なり選手層が薄いチームであった。, 投手陣では、リリーフエースから先発に転向させた福原忍や若手で野村監督就任時2年目だった井川慶に大きな期待をかけていた。特に井川については野村が監督をつとめた3年間でエースとして成長した。また「遠山・葛西スペシャル」などは人材難の裏返しでこそあったが、野村時代3年間でチーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々改善されている。福原や井川が活躍してセ・リーグ制覇を勝ち取った2003年シーズンおよび2005年シーズンのチーム防御率はそれぞれ3.53と3.24だった。, 野村と共にヤクルトから移籍した、ヘッドコーチの松井優典は「ミーティングを仕切れない。その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気の新庄剛志外野手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」そんなことを野崎はオーナーの久万に伝えた[66]。, 一方でチームの打撃成績は中々上がらず、戦力が少ない中でのやりくりも上手く行かず、「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と度々酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)との対立が話題に挙がることも多かったが、こうした対立はあくまでも少数派であり、岡田彰布が監督に就任した前後で野村が楽天の監督となった後も赤星、藤本、矢野輝弘、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた。また、低打率かつ三振が多くレギュラーポジションを奪われていた桧山が中距離打者としての地位を確立したのも、新人の赤星がリードオフマンのポジションを得たのも、野村監督時代であった。, ヤクルト時代の教え子で、巨人退団後野村が獲得した広澤克実は「2000年の阪神はヤクルトが最下位争いしていた時代と同じ色がしていた。ベテラン、外国人、若手がみんなバラバラ。不協和音が流れ、選手が育たない独特の雰囲気だった。私は右肩の脱臼骨折が完治しておらず、ボールが投げられない状態だったが、よく4番一塁で使ってもらった。一塁手の大豊泰昭が野村監督と揉めていたからだ。」と述べている[67]。, 野村の阪神監督時代二軍監督だった岡田は「阪神の二軍監督の時は野村さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーションが取れんかったのは事実だ。野村さんは一度も二軍の試合は見にこんかった。鳴尾浜には松井さん(ヘッドコーチ)がいつも来ていた。二軍の選手も数字がついてくる。打者も投手もファームで成績を残し一軍に上がりたい。打っても、抑えても一軍からお呼びがかからなければモチベーションは下がるし、「なんで俺より先にあの選手が?」と疑問に思う。野村さんは一軍に昇格させた選手を一度も使わず、二軍に戻すこともあった。あの頃は、頑張っている選手たちの汗に応えてあげることができず本当につらかった。野村監督で一番参っていたのは今岡だろう。今岡自身にも問題はあったかもしれないが、野村さんは覇気のない態度や、時に見せる淡泊なプレーが気に入らなかったようだ。今岡という選手は二軍に置いて調子を見るというタイプではない。気持ちで打つ選手やから、難しい球をホームランすることもあれば、あっさり三振する時もある。この点も野村さんには嫌われていたのではないか。」と述べている[68]。, グラウンドでの采配のみならず、フロントに積極的な戦力補強の進言をしたとされる[69]。野村は史上初めて久万と会談した阪神の監督である。エースと4番打者は育てられないと主張する野村に対し[70]、久万は元々、FAなど多額の金銭を使って日本人選手を獲得することに消極的で、補強はトレードと外国人獲得で済ませていたこともあり、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していた。しかし野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? 『サラリーマン球団社長』 | J-CAST BOOKウォッチ  BOOKウォッチ, 江本孟紀氏語る「本当のノムさんは南海だよ。もっと『南海・野村』を球界に認識してもらいたい」  ZAKZAK. その後阪神は、野村辞任の2年後にあたる2003年と岡田監督2年目の2005年にリーグ優勝を果たした。2006年5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。, 2002年11月6日社会人野球チームのシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。就任当時のシダックスは低迷していたが、野村は持ち前の理論を元にチームを再建。またオレステス・キンデラン、アントニオ・パチェコの元キューバ代表選手を獲得、2003年の第74回都市対抗野球大会では準優勝を果たした。この年のオフにはサンケイスポーツなど一部スポーツ紙から中日ドラゴンズの次期監督候補として名前が挙がった[71] が、結局は落合博満が就任した。, 2005年10月3日、楽天監督就任要請を受けたため同年限りでシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対日本生命戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、日本野球連盟は同年の社会人ベストナイン特別賞を野村に授与している。, のちにキューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものもあった。, 2005年9月、楽天は「チームの再構築が必要」という理由から初代監督の田尾安志を就任1年足らずで解任。この時、野村は楽天側から非公式の監督就任の打診を受けていたものの、契約条件や巨人を自由契約になった清原和博の獲得問題などで難航した。だが、10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に受諾。5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代で監督となったのは仰木彬に次いで史上2人目[注 16]。, 監督就任に際し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している」とコメントしている。1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。「三木谷浩史が清原のファンみたいだね。オレは知らないけど、三木谷が獲りにいくでしょう。ピアスに代表されるように、精神構造が乱れている。チームの統制が乱れるので、指揮官としてはやりにくい」と改めて難色を示し、コーチ人事は伊勢孝夫、八重樫幸雄、川崎憲次郎の名前が候補に挙がっていたが[72]、川崎に投手コーチの要請をしたが断られ[73]、自身の人脈で連れて行ったのは池山隆寛だけだった[74]。, 2006年5月11日、セ・パ交流戦の対横浜戦において、8回裏に谷中真二が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに激昂し、木内九二生球審を突こうとするなどして猛抗議。あわや野村も退場処分になるところだった。5月16日、フルスタ宮城で行われたヤクルト戦では、ヤクルトを率いる古田監督との師弟対決が実現した(結果は、10-9でヤクルトが勝利)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトが勝っていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝ち、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。, かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、ベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方、記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。ホームゲームでは毎試合、終了後に記者の囲み取材に応じており、テレビのスポーツニュースでは野村の試合後のコメントが伝えられた。特に田中将大が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、スポーツ紙などでは名物コーナーとして、「野村語録」が常設されるようになった。, 育成方針は基本的に叩いて伸ばすタイプだが、楽天時代には活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈るなど、以前とは違った面を見せ始めた。カツノリは同年に戦力外通告されたのを機に現役を引退し、コーチに転身した。, 2006年は昨年続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁に次いで史上5人目の両リーグ最下位の監督になった。公式シーズン後(11月)に行われた日米野球の監督を務めたが、選手の出場辞退が相次ぎ苦戦、史上初めてメジャーリーグ選抜チームに5戦全敗。72年ぶりの記録となった。, 2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。このことは球団側も聞かされておらず、米田純球団代表も突然の事態に困惑していた。野村は就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年かけてチームを作る方針を語ってきたが、2007年は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱する計画に反するため、本当に辞めるつもりだったのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うというリップサービスであったのかは定かでない。また、球団側は2007年シーズンが終了してもまだ契約が残っていることを強調したため、来季の成績如何にかかわらず慰留する方針であると考えられていた。11月26日に行われた球団納会において島田亨球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。, 2007年シーズンは新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では一場靖弘、岩隈久志らがシーズン序盤で離脱した影響もあり、永井怜、田中将大らを先発ローテーションに起用。捕手は育成を兼ねてルーキーの嶋基宏を多用。またシーズン中盤には渡辺直人、草野大輔らが台頭した。後半戦開始間もなく福盛和男が離脱するものの小山伸一郎をリリーフエースとして起用、一場と岩隈が一軍に復帰したこともあり先発ローテーションを再編、それまで主に先発だった山村宏樹、有銘兼久、永井らをリリーフに転向させた。さらに4番を張る山崎武司が38歳での本塁打王・打点王の二冠に輝く大活躍もあり、シーズンの最終成績は4位で創設3年目で初めて最下位を脱出した。2007年10月4日、3年契約最後の年である2008年も予定通り監督を続けることを表明。, 2008年6月29日のソフトバンク戦で球団史上最多20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(西武ドーム)では「ライオンズ・クラシック」企画の一環として、当時(1963年)の日本記録である野村の52本塁打達成の舞台となった西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現するイベントが行われた(この試合では豊田泰光(元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた)。, 同年7月15日、日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3,000試合出場を達成、選手としても通算3,017試合に出場しており、日米ともに前例のない、選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、2009年も引き続き楽天を指揮することになったが、ドミンゴ・グスマンとホセ・フェルナンデス(中村紀洋をFAで獲得)が退団。, 2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新人投手全員がオープン戦前に故障してしまい、片山博視や青山浩二といった期待の若手もキャンプで出遅れた上、前年活躍した新守護神川岸強も開幕後すぐに体を傷めるなど、投手に関しては就任以来の災厄に見舞われた。さらに野手に関しても、高須洋介やリック・ショートなどが故障でシーズン中に長期間戦線離脱するなど怪我人の多い年となった。スポーツ紙での解説者の順位予想では楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して「下馬評が低いからやりやすい」とコメント。, レギュラーシーズンが開幕するとチーム初の開幕4連勝で好スタートを見せ4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(ヤフードーム)でチーム初のクライマックスシリーズ(以下「CS」)進出マジックナンバー「19」が点灯。2度消滅するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で勝利し、チーム初のCS進出が決まった。9日のオリックス戦で2位が確定しCS第1ステージの地元開催権を獲得する。楽天球団として創設後初のAクラス入りとなり、野村自身のキャリアでもヤクルトで最後に優勝した1997年以来8シーズンぶりであった。, 翌々日・11日にKスタ宮城で行われたレギュラーシーズン最終戦(ソフトバンク戦)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニーの後、楽天と日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。日本ハムに敗れた10月24日が野村にとって現役、監督通じてユニフォームを着てグラウンドに姿を見せた最後の日となった。11月2日、楽天の新監督に広島の前監督マーティ・ブラウンの就任が発表されるとともに、一度は拒否の姿勢を見せていた名誉監督就任要請を受諾した。この年をもって現場からも完全に引退することとなった。, 退任決定の際に「人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた」と語った。さらに「ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、やっぱりオレは『元南海』がいい」とも口にした。2009年が、ユニフォームを着た指揮官として最後の年となった。, 2010年からはサンケイスポーツの野球評論家に復帰、テレビ・ラジオではフリーの野球解説者として出演した。, 2010年1月24日には、故郷網野や母校が在る峰山町(平成の大合併で両自治体合併し京丹後市)を含んでいた京都5区選出代議士谷垣禎一が総裁就任直後の政権奪還を目指す野党第一党自由民主党の党大会で講演をした。講演では「負けるときは負けるべくして負ける。巻き返しに向けて頑張れ」と自民党の政権奪還に向けて叱咤激励し、「負ければ反省するが、勝つと反省しない。そこに落とし穴があった」と第45回衆議院議員総選挙敗北の要因を野村なりに分析し語った。また、自民党をかつて「球界の盟主」と言われた読売ジャイアンツに例え「上に立てば必ず足を引っ張られることを忘れず、気を引き締めて捲土重来、頑張ってください」と応援の言葉を述べた[75][76][77][78][79][80]。また、小泉進次郎(衆議院議員初当選から半年足らず)については「実にしっかりしている」と述べ、その上で「球界では親子2代で名選手の例がない。どうして政界と違うのかねぇ」と述べた[81]。, S☆1で共演していた枡田絵理奈は「野村さんの解説は本当にわかりやすく、ひとつひとつのプレイをとてもていねいに教えてくれます。監督は、野球をあまりよく知らない私に、野球の〝楽しさ〟や〝奥深さ〟を教えてくれる先生でもありました」と言っていた[82]。2011年の日本シリーズでは第2戦、第5戦をテレビ東京系列で、第7戦をTBS系列でゲスト解説を担当した。中継放送終了後のS☆1も生出演した。, 2012年12月29日、契約満了により楽天名誉監督を退任[83]。2020年現在までに、プロ野球界で名誉監督の称号を贈られたのは、野村と長嶋茂雄(巨人終身名誉監督)のみである。, 2013年4月、日本体育大学児童スポーツ教育学部客員教授に就任[84][85]。大学で講演など実施。