」の理由で、横綱審議委員会への諮問は却下されてしまう[38]。翌2005年1月場所、再び綱獲りにチャレンジした魁皇であったが途中休場に終わり、以降横綱挑戦の場所は二度と巡らなかった。それでも大関在位65場所と長期間「名大関」として君臨、39歳になる寸前まで多くの大相撲ファンを沸かせた。魁皇自身は引退後著書で「もし自分が横綱に昇進していれば、通算1047勝の記録は達成出来なかったと思う」「横綱の地位に求められる成績を自分は残せなかった、というのが本音。だから全く後悔はない」と記している。, 大関昇進前、優勝決定戦にも2度出場(いずれも敗退)しているが、5人の決定戦と[39]、4人の決定戦であった[40]。ここに記した貴乃花、曙、武蔵丸、若乃花、貴ノ浪という横綱大関陣は古今有数の強力布陣との評価もあり、千代大海がチャンスをうまく掴んで大関に昇進したが、魁皇・武双山・栃東らはこの5人衆+千代大海の影響で大関昇進に苦労した。, さらに、2007年(平成19年)1月場所で、小結以上在位71場所の新記録を樹立した[41]。これも魁皇の実力を裏打ちするものであり、「もしタイムマシーンがあれば、魁皇を、江戸時代の古今無双大関雷電爲右エ門と対戦させてみたい」という声も聞かれたことがあった。, 現在の大相撲の一大勢力となりつつあるモンゴルでも人気が高く、特にジグジドゥ・ムンフバト(横綱白鵬の父)が魁皇の大ファンらしく、白鵬を通じて魁皇に薬膳料理の食材を贈ろうとしたことがあるらしい。魁皇は、仕切り中に咳をすることが多いが、それを見た白鵬の父が魁皇を心配してのことらしい。白鵬は、それを託された当時はまだ関脇で、「大関の魁皇関に対して、ワシが関脇の分際でそんなことをすれば失礼になる」と言って、難色を示したそうである。なおのちに「平成の大横綱」となった白鵬は、魁皇の引退に「まさかだよね。場所前はそういう雰囲気ではなかった」と驚きながらも「名大関と対戦した事を誇りに思う。一番横綱に近い大関だった」と振り返っていた[6][42]。, 2009年6月2日に日本外国特派員協会に招かれ、「いつ引退するのか?」との質問に「いつそういう時がきてもおかしくない状況だけど、自分は相撲が大好き。死ぬまで現役にこだわりたい」と答えた。実際に魁皇が引退を表明したのは、それから2年後の2011年7月19日であった。, 2009年11月9日に自伝「怪力」(ベースボール・マガジン社)が発売された。発売前々日の7日には紀伊国屋書店福岡本店でサイン会が行われた。同年12月18日には、文化放送の正月特番「新春スポーツスペシャル 工藤公康・魁皇 新春ビッグ対談〜生涯現役!」で、埼玉西武ライオンズに復帰した工藤公康との対談に臨み、「生涯現役」にこだわることを宣言。魁皇と工藤はこのとき初対面だった。対談の様子は翌年1月2日に放送された。, 引退記者会見で魁皇は思い出の取組に、2000年1月場所千秋楽で当時関脇の武双山(現・藤島親方)に敗れて7勝8敗と負け越し、また武双山の幕内初優勝も献上した一番を挙げ「その時の悔しさがあったから、自分も大関に上がれた」とコメント。さらに「意識した対戦相手は?」との質問には「武双山は年も近いしライバルと言われていたので、常に負けたくないと思っていた。最近では千代大海(現・14代九重親方)。同じように怪我で苦しんでお互い引き際を無くして、どうしようかと話したこともある」と語っていた。, それに対して、18代藤島の武双山は「一緒に刺激し合った特別な存在だった。休場して来場所もと思っていたが、勝てなければ辞めるしかない。魁皇本人が最もほっとしているのでは」と、大親友でもある魁皇の引退を労っていた。なお武双山とは同じ1972年生まれ(但し学年は魁皇の方が1年後輩で、武双山は72年2月の早生まれ)で、武双山が引退の2004年11月場所まで、奇しくも魁皇と幕内在位場所数(68場所)が全く一緒だった[43]。武双山とは幕内で48回対戦し、成績は魁皇の31勝17敗(内2勝は不戦勝)。なお、魁皇と武双山共に大関昇進が遅かった事もあり、この両者には、「前頭在位・10場所、小結在位・11場所」(前頭在位場所数より小結在位場所数の方が多い)という珍記録もある。, また、20代佐ノ山(2011年当時・現九重)の千代大海も「古い戦友としてお疲れさまと言いたい。この日の一番と雰囲気を見て最後になると感じたが、ファンのために一日でも長く土俵に上がる姿勢には感動していた。今まで本当に立派だった」と称賛している。なお千代大海と幕内での取組は通算で54回も対戦したが、これは当時で大相撲史上2位[44] の記録だった。対戦成績は魁皇の34勝20敗(内1勝は不戦勝)。2010年1月場所、大関から関脇に陥落した千代大海は、同場所の3日目で魁皇に敗れたこの一番(魁皇の勝利で史上最多の幕内808勝を記録)が現役最後の相撲となり、翌4日目に千代大海は引退を表明した。, さらに、「花の六三組」の同期生(魁皇と同じ1972年度生まれ)の中でも最大の好敵手だった横綱貴乃花とは、一時期は共に人気を2分割した大相撲の2枚看板でも有った。魁皇自身幕内初優勝した場所も貴乃花の優勝の可能性が消えた直後、同期で同じく優勝を争っていた横綱曙を下し援護射撃をする形になる等、様々な深い縁がある。魁皇の初優勝時の貴乃花は「魁皇にはおめでとうと言うしかない。悔しさは無い」と潔く祝福の言葉を述べている。なお魁皇自身が獲得した通算の金星の内、最多の3個は貴乃花からである。ただし、大関時代の貴乃花からの勝ち星は一度もなかった。貴乃花が引退した2003年の1月場所以降、日本人横綱不在を解消する意味で期待を掛けられていたが、綱取りは失敗に。魁皇の引退はそれから8年半も経った2011年7月場所で、それに際して貴乃花親方は「正に横綱みたいな大関。同期として一番尊敬する力士だった。長い間本当によく頑張ってくれたと思う」と誉め湛えていた。, 引退相撲を控えた2012年4月4日・11日に放送されたNHK『鶴瓶の家族に乾杯』に出演し、笑福亭鶴瓶とともに熊本県人吉市を訪れた。行き先の店でかつて昭和初期に双葉山らが人吉で巡業を行ったときの板番付が勧進元の人物の孫が経営する和菓子店に今も残されているのを聞き、現物を見て驚きを見せた。また、同行していた枝川親方も同じく驚いていた。, 2014年には地元直方市の直方駅前に銅像が設置され、同年10月26日に除幕式が行われた[45]。この銅像は除幕2日後に落書きが見つかり、同年10月から11月にかけてにさがり2本が計7回折られるなど相次ぐいたずらに見舞われ、これを受けて市は被害届を提出し、12月に防犯カメラ2台を設置するという対応に追われた[46], 2015年6月20日、先輩大関だった貴ノ浪こと19代音羽山親方が43歳で急病死。学年は魁皇が1年後輩で、幕内では51回対戦した(魁皇の24勝27敗、優勝決定戦で1敗)。青森県出身の貴ノ浪は、かつて現役時代の九州場所について「魁皇にとってはホームゲーム、こちらはアウェーゲームみたいなものだ」と発言していた。一方魁皇は貴ノ浪を「スケールが大きくて豪快」と振り返り、「明るく周りを和ませてくれる人柄だった」とコメント。「心臓が悪いと聞いていたが、最近は元気だと思っていたからまだ信じられない。体調が悪くても人に見せなかったから、本当はしんどかったのかも。これからお互い協会の為に頑張ろうと思っていたのに…」と早過ぎる死を惜しんでいた[47]。, さらに1年後の2016年7月31日、「昭和の大横綱」こと千代の富士・13代九重親方が61歳で逝去。「九重親方の1000勝は私と比べるものではない。あの体で大きな相手を倒したのは凄いしレベルが違う。本当に悲しい」と追悼のコメントを述べていた[48]。, 1998年7月場所の第66代横綱・若乃花勝以来、2017年3月場所に日本出身力士として19年振りに誕生した第72代横綱・稀勢の里は、新横綱の場所13日目の第70代横綱・日馬富士戦で、左肩周辺の筋肉を部分断裂する大怪我を負いながらも優勝。だがその後も相次ぐ故障に泣かされて、横綱昇進以降途中休場5回・全休4回も繰り返し、進退を掛けた2019年1月場所も初日から3連敗の成績不振で現役引退を表明。その報道に関して浅香山親方は「けがは(力士にとって)付き物で、皆すること。ケガとどう向き合うかでその先の人生が変わる」と指摘した上で、「稀勢の里は負傷の直後から徹底的に治して、稽古をしっかり出来るように成ってから本場所に出るべきだった。試す場もないまま、延々と中途半端に場所へ出たように見える。横綱だから番付は落ちないし、半年位堂々と休めば良かった」と、結局在位12場所の短命横綱に終わった事を悔やんでいる[49]。, 2019年10月、内閣総理大臣顕彰受賞者として、今上天皇の即位の礼に大相撲界から唯一招待された[50]。10月22日の即位礼正殿の儀には紋付袴の正装で臨み、同月29日の饗宴の儀にも出席した[50]。, 酒豪かつ酒癖の悪い人物として有名で、酒に酔って暴れた逸話もいくつかある[51]。酒に強く酒癖が悪いことついては父親譲りだという[7]。, 同郷のアナウンサーである新垣泉子には浅香山部屋の行事の司会を務めてもらうことがあり、やはり同郷出身の政治家である麻生太郎には2019年11月場所千秋楽祝賀会にサプライズで来てもらった[52]。, (カッコ内は勝数・負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。太字は2020年7月場所終了時の現役力士), 福岡県民栄誉賞・直方特別市民文化栄誉賞の授賞式(後述)に出席するべく2011年8月に地元の直方市へ帰郷した際市内の企業である明治屋産業を訪れ、その明治屋産業が展開する事業「びっくり市」で販売される「レンガステーキ」4kgを軽々平らげた。, 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)176ページから177ページ, 自著『嫌いなことでも好きになれる。』によると「内臓検査で不合格になれば地元に戻れるだろう」とまで祈るほど入門を嫌がっていたという。, 直方市は2000年11月に魁皇の初優勝に対し、「市民文化栄誉賞」を既に贈っていたため、新しい賞を魁皇に贈るために創設された賞である。, 事実、昭和以降に12場所以上幕内連続勝ち越しの記録を残した力士(14場所)の中でもただ1人勝ち越し期間中に大関以上に昇進していない。, 優勝制度が確立されて以降(平幕・三役も含めて)、地位が大関以下で通算5回以上の幕内優勝を果たしながら横綱昇進を逃した力士は魁皇が唯一である。, 千秋楽翌日、一部の横審委員から「諮問ぐらいはすべきだった」と相撲協会に対し苦言を呈する者もいた。, 1996年(平成8年)11月場所、当時西関脇で11勝4敗、優勝は西大関1の武蔵丸、他の相手は西横綱の, 1997年(平成9年)3月場所、当時東前頭筆頭で12勝3敗、優勝は東横綱の貴乃花、他の相手は西横綱の曙、西大関の武蔵丸。, 当該場所終了時の在位場所数は大関39、関脇21、小結11。それまでの最高記録は横綱, 武双山は1993年9月場所新入幕、魁皇は1993年5月場所新入幕で、入幕の時期は違うが、魁皇は1993年7月・9月の2場所十両陥落後1993年11月場所再入幕している。, 浅香山親方(元魁皇)、落下力士の直撃受け負傷…「紋付きで行くなんて」と車いすで診療所へ, 幕内800勝達成の魁皇 史上3人目も無関心貫く(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース, 『ナニコレ珍百景』2010年6月23日OA 【珍百景No.646】みんなで勝利を祝う町, 『ナニコレ珍百景』2011年8月10日OA 【その後の珍百景】「勝利の祝砲の結末」, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=魁皇博之&oldid=80431946, 5月場所 - 同期の曙、貴花田、若花田にやや出遅れたが20歳の若さで新入幕、しかし負け越して翌場所十両へ陥落(4勝11敗), 11月場所 - 優勝同点(11勝4敗)、曙・若乃花・武蔵丸・貴ノ浪ら5人で自身初の幕内, 3月場所 - 2度目の優勝同点(12勝3敗)、貴乃花・曙・武蔵丸ら4人で優勝決定戦に出場, 7月場所 - 10日目を終えて3勝7敗と不調であったが、終盤5連勝して勝ち越し。大関昇進への挑戦権を辛うじて継続した。, 3月場所 - 13日目を終えて6勝7敗と追い込まれるも、14日目、千秋楽と連勝して勝ち越し。再び大関昇進に向けての橋頭堡を築く。, 7月場所 - 11勝4敗で10回目の殊勲賞(歴代1位タイ)、大関昇進を決め大関推挙伝達式での口上は「大関の地位を汚さぬよう稽古に精進します」、花の六三組では曙、貴乃花、若乃花に次ぐ4人目の大関。なお戦後に大関昇進を果たした力士のうち、十両での休場と、幕内からの十両以下への陥落の双方を経験したのは, 5月場所 - 初の綱獲り場所、腰椎椎間板ヘルニア及び左腰神経根麻痺のため9日目から途中休場, 9月場所 - 2度目の綱獲り場所、腰椎椎間板ヘルニア及び左腰神経根麻痺が再発のため4日目から途中休場, 11月場所 - 2度目の角番、千秋楽結びで武蔵丸に勝利した際に会場から祝福の座布団が舞う, 9月場所 - 3度目の綱獲り場所、15日間皆勤するも大関での皆勤での初の負け越し(7勝8敗), 11月場所 - 4度目の綱獲り場所、千秋楽で朝青龍を寄り切って優勝次点の成績(12勝3敗)を挙げるも横綱昇進は見送りに, 3月場所 - 9度目の角番、12日目までに5勝7敗と引退の瀬戸際に追い込まれるも13日目から3連勝で千秋楽に勝ち越しを決めて角番脱出, 5月場所 - 初日から2連敗して再び引退が騒がれたが、3日目から8連勝して10日目に勝ち越し引退説を弾き飛ばす, 9月場所 - 戦後初の34歳大関、本年2度目の腰椎椎間板症のため7日目から途中休場, 11月場所 - 10度目の角番、初日から8連勝で角番脱出、途中まで優勝争いにも入ったが投げ主体の取り口で内容に乏しく後半戦は失速し10勝5敗に終わったものの1年ぶりの2桁勝利、全日程終了後は「来年も九州に現役で戻って来られるように頑張ります」と力強く話す, 7月場所 - 4日目に史上6人目の幕内勝星700勝達成、11日目に勝ち越したが左大腿屈筋損傷のため13日目から途中休場, 5月場所 - 初日に史上4人目の通算勝星900勝達成、13日目に5月場所は2年連続で朝青龍を破る(同じ決まり手「上手出し投げ」で勝っている), 1月場所 - 12度目の角番(当時千代大海と並び角番歴代1位タイ)、12日目に勝ち越して角番脱出、大関在位51場所(歴代単独2位)、幕内在位93場所(, 11月場所 - 幕内在位98場所(歴代単独1位)、3日目に史上3人目の幕内勝星800勝達成、10日目に幕内勝星805勝達成(北の湖の804勝を抜き歴代単独2位)、千秋楽で琴光喜に勝利し8勝7敗、1958年から始まった年6場所制度では52年の歴史で幕内史上初の「年6場所全て8勝7敗」という珍記録達成, 2月 - 直方市特別市民栄誉賞受賞。幕内通算最多勝星をはじめ、相撲での業績と市民からの支持が高く評価された, 3月場所 - 史上初の「幕内在位100場所」達成、8勝7敗で「3月場所20年間連続勝ち越し」という未曾有の記録達成, 5月場所 - 史上初の「関取在位111場所」及び「幕内連続在位100場所」達成(新入幕直後に十両に陥落しているため幕内通算在位では101場所)、千秋楽に大関・琴欧洲を破り千代の富士(通算勝星1045勝)以来史上2人目となる「通算勝星1000勝」達成、観客は2日前に優勝を決めていた横綱白鵬の取組よりも大きな声援を贈る, 7月場所 - 大関以上の地位で日本出身の力士は魁皇1人、8日目まで6勝2敗と好調だったがその後2連敗、左肩甲下筋腱断裂の疑いで11日目から途中休場、休場中の14日目に38歳の誕生日, 9月場所 - 13度目の角番、横綱大関総当たりの地位となる前頭3枚目以上の連続在位100場所達成(下表参照)、5日目に幕内出場数1379回(, 11月場所 - 2日目から11連勝を記録するが白鵬との直接対決で完敗、14日目の豊ノ島戦にも敗れ優勝の可能性が消えたが12勝3敗で2007年5月場所以来の二桁勝利と2004年11月場所以来の12勝3敗の好成績を挙げた。, 5月技量審査場所 - 12日目の把瑠都戦で幕内出場数1431回(高見山を抜いて歴代単独1位)を達成。この場所は9勝止まりであったため、千代の富士の持つ通算勝星1045の記録には僅か1勝届かなかったが、千秋楽に白鵬に2010年1月場所以来となる勝利をした。, 通算成績:1,047勝700敗158休(通算勝星:歴代2位、140場所)勝率.599, 関脇・小結在位:32場所(歴代2位)(関脇21場所(歴代2位タイ)、小結11場所(歴代8位タイ)), 通算(幕内)連続勝ち越し記録:14場所(1994年9月場所〜1996年11月場所), 幕内最高優勝:5回(2000年5月場所、2001年3月場所、2001年7月場所、2003年7月場所、2004年9月場所), 殊勲賞:10回(1994年3月場所、1995年1月場所、1995年9月場所、1996年1月場所、1996年5月場所、1996年7月場所、1997年3月場所、1998年3月場所、2000年5月場所、2000年7月場所)(歴代1位タイ), 敢闘賞:5回(1995年11月場所、1996年11月場所、1999年7月場所、1999年11月場所、2000年5月場所).